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『薔薇園』は、バス停から三十分歩いたところにある。
山を下る道の途中、錆び付いてぼろぼろになったバス停の前には民家が二つあるだけだ。ちかちか、じりじり鳴く街灯がひとつ。降りるのはいつもアタシひとりだった。
民家も道路際も、木や枝、草でもっさり埋まっている。この家に灯りが点いているのを見たことは一度もない。大きな、金、の字だけが見える看板が草に埋もれていた。
道なりに坂を下る。十分ほど歩くと、草に埋もれた矢印の看板が見える。まっくろくなった木の看板に、くろい字で『薔薇園』。ほんの少しの草の分かれ目を縫って、脇道に入る。獣道みたいにぼんやり道になっているのは、アタシが七日に二回通っているからだ。濃いみどりいろの中を、隙間灯りをあてにして進む。昼間じゃないととても歩ける場所じゃない。
そうすると、鼻がむずむずしてくる。近付いてきた。どんどんもったりとしたにおいになってくる。あまい、すっぱい、すうっとする、いろんなにおいが混ざり合って、どれの香りなのかわからなくなる。
木みたいな顔で立っている鉄柵に沿って左へ。もう三分ほど進むと、鉄柵が傾いている場所がある。その隙間をそっと通って、山で野放図に生えているのとは異なる木枝の下を腹ばいで過ぎれば、温室の裏に出る。
「アヤメ」
汚れて真っ白くなったガラス越しに、中の人影がひとつだと確認する。小声で呼びかけると、ガラスのひとつが押し開けられ、顔が外に出てきょろきょろした。まっしろくふわふわした髪が揺れる。みどりいろに沈んだ中で一際浮かび上がって見える髪は、うなじで黒いリボンがひとつに纏めている。みどりの眼がアタシを見つけて、アヤメが手招きする。
アタシを見つけてぱっと大きく開く口、持ち上がる頬と眉。アヤメの顔はパーツがどれも小さいからなおさら、大きく動くと空気に色がつくみたいだ。この顔を見ると、これまでの道のりなんかなんともならなくなる。
「今日はいつもより遅くない? なにかあったの、アサギ」
アヤメに手を引かれて温室に入った。空気がもったりと重い。だけど葉っぱと土のにおいだけの温室だ。アヤメのためだけの温室。
「部活。大会が近いからさ、なかなか抜けられなくって」
「大会! いいなあ、アサギも出るの? 応援しに行かなくっちゃ」
アヤメは黒いセーラー服の両手を広げてくるりと回る。短パンからのぞく膝はきゃしゃで小さくて、手も足も細っちい。アタシにとっては少し年の離れた弟みたいなものだ。アヤメは男の子でも女の子でもないのだけれど。
「出ないよ。補欠だもん。そうだ、遅れたお詫びじゃないけど、いいものあげる。一緒に食べよ。授業で作ったんだ」
「クッキー!」
アヤメは飛び跳ねて喜んだ。温室じゅうに声が響いて思わず足が止まる。「大丈夫だよ、アサギ」アヤメはにこにこしたままテーブルにつく。「今日の水やりは終わってるから。今週はバラたちの交配で忙しいみたいだし、ボクを見張ってる”ハナ”なんていないよ」
ここは『薔薇園』。男の子でも女の子でもない、ヒトのかたちをした花――”ハナ”が『栽培』され『出荷』されている場所だ。
「”ハナ”ってほんと、不便だよねえ。一日一回のお水で生きていけるけど、全然丈夫じゃないし。ひとには変な目で見られるし、こんなところに閉じ込められちゃうし」
あーあ、さいあく! アヤメは足をばたつかせてぷりぷり怒る。ティッシュ包みのクッキーはほとんどがぼろぼろになっていたが、アヤメは大きなかけらからぽいぽい口にした。
「甘いものも食べられないしね! うーんあまーい! おいしーい!」
はしゃぐアヤメからはふんわり、ほのかにあまい香りがする。すっと鼻に抜ける爽やかなあまさだ。キンモクセイと似ているけれど、もっともっと薄い。
アタシがアヤメと出会ったのはほんの偶然だった。大雪の日に、バスがあのバス停より先へ進めなくなって、歩いて帰る途中足を滑らせて、アタシはこの『薔薇園』まで転がり落ちた。その日たまたま温室から脱走をはかっていたアヤメが助けてくれたのだ。
アヤメは、アタシがテレビや授業で聞いた”ハナ”とは大分違った。”ハナ”は、ヒトの新しいかたち。でも、ヒトの手で生み出された悲しい、かわいそうな生き物。宇宙探索、海底調査、あらゆる危険な場所、災害救助まで、ひとの手と状況判断は必要だけれど、ひとの身体が耐えられない場所へ、ことへ、派遣されるために生み出された。
かわいそう、非人道的行為――誰も彼もがそう言っているのに、”ハナ”は生み出され続けている。こんな片田舎でさえ。
暗くなりきる前に帰るから、アヤメと話していられる時間はそうない。一週間に一回、一時間だけ。それ以上だと、きっとほかの”ハナ”たちに見つかってしまうから。アヤメはそう言って唇に人差し指を当てていた。
「バイバイ。気をつけてね、アサギ」
帰り際、アヤメはアタシの手を握った。冷たい手だ。
こんなに心配するなんて珍しい。アタシはほんのちょっと気になったけど、聞き返さずに手を握り返して別れた。
アヤメは、なにかを知っていたのかも。
そう思ったのは、翌日の昼だった。ブーブーサイレンが鳴って、授業中の教室ががたがたする。誰かが窓を開けた。あまいにおいがむっと鼻をつく。町中がサイレンで揺れているみたいにけたたましかった。
”ハナ”だ。”ハナ”の工場が燃えている。
教室の誰が最初にそう言ったのかわからない。だけど身を乗り出して見た窓からははっきりと、『薔薇園』の方向にくろい煙が見えた。
教室じゅうに、町中に嘘か本当かわからない話が流れている。アタシが走っている間に、バスを待っている間に、待ちきれなくてまた走っている間に――管理不行き届きの事故、心ない誰かか、”ハナ”を嫌う誰かの放火、国が廃棄処理しているとか、”ハナ”を熾烈に目の敵にするどこかの国の攻撃だとか――聞いた。
バス停が見えた。山中下。息が切れて、心臓が止まりそうで、腹がひくついた。ざらざらしたバス停が冷たい。冷たいのに柔らかい手の感触を思い出す。来るのが遅くなって、帰って行くのも心配していたアヤメは、こうなることを知っていたんだろうか。なにかあったんだろうか。
ぐっと唾を飲み込んで足に鞭をうつ。坂道を駆け下り、山中の脇道へ。顔を打つ枝を振り払って、何度か転びそうになって、転んで、行き当たった鉄柵をよじ登った。
あまいにおいがする。身体中にまとわりつく。それに焦げ臭い。
高い鉄柵から身を乗り出すと、熱気が頬を焼いた。灰色と黒い煙がもうもうと一帯を覆っている。その下に、めらめらぬめる紅が見えた。まだ燃えている。ここに来るまでに、何時間もかかっているのに。
「アヤメーッ!」
まだここにいるだろうか。もう逃げていてくれるといい。だけど何度も叫んで呼んだ。
あさぎ、応える声が聞こえたような気がした。耳を澄ます。眼をこらす。声を限りに叫んで、アヤメを見つけた。
一番高い建物の屋上だ。『薔薇園』の温室以外の建物なんて見たことはなかったけど、そこを目指して鉄柵を跨ぎ滑り降りた。
『薔薇園』を囲んでいた木も草も全てが燃えている。火事の中に入ったことなんてなかった。だけど飛び込む。いくつかの建物が寄り集まっているらしい。横を通り過ぎるだけなら大丈夫、と思ったら崩れてきて慌てて逃げる。そうこう逃げ惑っているうちに、前後も左右もわからなくなるし、目指していた建物の目星もわからなくなってきた。一番高い建物。だけど下からじゃあそんなのわからない。上ばかり見上げて走る余裕はなかった。
「アサギ! アサギーっ!」
アヤメの声が聞こえる。アヤメがアタシを呼ぶ声が。「アヤメ!」呼び返すけど、喉が引きつれて声がもう出ない。
アヤメの声だけを辿って、見上げると、真上にアヤメの姿がある。屋上の端、もう落ちそうなほど身を乗り出している。待ってて。あとちょっとそのまま。今行くから。伝えたいのに声は出ないし、建物の入り口は見つからない。
「アサギ!」
アヤメが両手を広げる。どんなに遠くても見える。眉と頬の上がった、花の咲くような顔。
「アヤメ! だめ・・・・・・!」
アヤメが近付いてくる。落ちてくる。アタシは両腕を広げて受け止めようとする。けれど、煙の中でアヤメの身体はばらばら花びらになって散っていって、その花びらだって燃えて残らない。ただぼとり、しろくつるりとした根のかけらだけがアタシの手に残った。
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