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謎解きはグリル式波のディナーの後で 編
帰国中の宮村優子と待ち合わせていた『グリル式波』には、稲垣の方が遅れて到着した。
カラン。とベルを鳴らして入り口のドアを開けると、一番奥のボックス席に、ベビーカーを足元に停めた宮村が座っていた。
「あー。宮村さーん」
胸元で両手を振りながら、小走りに駆け寄る。
テーブルの上に広げた法月綸太郎の小説から顔を上げた宮村は、稲垣に気付くと眼鏡を外して微笑んだ。
「すんません、待たせてもうて」
「ええよ、私も遅れて来たし」
「ウチも、ちょっと事件に巻き込まれてもうて…。警察の取調べがあったんです」
「また事件に巻き込まれとるんか?」
「今度は友達が殺されたん」
「友達かぁ…。名探偵も大変やね。行く先々で事件やん」
「みやむーは、何で遅れたんですか?」
「それがなぁ、早希ちゃんのせいやねん」
「ウチのせい?」
「早希ちゃん、ロケみつで幸せギャグてやったやろ?」
「道路の白線から外れて歩いたら死ぬ。せやけど猫を見つけて、『あっ、猫だ!』言うて白線から外れるやつやね」
「あれを娘が真似して、『猫だ!』言うて、道路に飛び出して、車に撥ねられてもうたん。もうほんまにたまらんわぁ」
「えーっ!…えらい、すんまへん!ほいで娘はんの怪我の具合は?」
「全治三百ヵ月や」
「三百ヵ月!?」
「そやで。もう早希ちゃんかんべんしてえな…。それで入院の準備があって、遅れてもうたんよ」
「…悪い事してもうた」
「まぁ、ええけどな。あとで早希ちゃんに賠償金請求するから」
「…賠償金。幾らくらいでっか…?」
「十億」
「ジュジュジュジュジュウオク?」
思わず稲垣の口から熱々のハンバーグみたいな音が飛んだ。
その時、ベビーカーの中から、「パイパイ」と声がした。
「あ、下の子が目ぇ覚ましてもうた」
気を取り直して、ベビーカーを覗き込む。
「確か男の子ですよね。可愛い」
まだ十億のショックから立ち直っていなかったが、赤ん坊の余りの可愛らしさに、稲垣も笑顔になる。
「名前はサスケて言うねん。お腹が減ったんかもしれへん」
しかしサスケは、ベビーカーを覗き込む二人のアスカを見て泣き出してしまった。
「どうしたんやろ…。泣いてもうた」
稲垣が慌てる。
「知らんオバハンが見とるから、ビックリしたんかも」
「なんやて!?」
スパーン!
いきなり稲垣が、宮村を張り倒した。
「ウチはまだ二十八歳やで!オバハンとちゃうわ!」
「…いったーい。何すんねん偽アスカ!」
椅子から落ちた宮村が、頬を撫でながら睨む。
「偽もんやけど、まだ二十八や!若いんや!」
「アスカの倍もあるやん」
「そやよ。せやからイベントで、オバンゲリヲンやて自虐ギャグやっとんのや!」
「ほなオバハンでええやん…」
「オバハンやない!エヴァの呪縛で気持ちは十四歳なんや!」
「それは私も同じやで。エヴァの呪縛で気持ちは十四歳やねん。ホンマは十と四の順番が逆やけどな…」
「ほなお互いまだ十四歳て事にしましょ」
「そやね」
倒れていた宮村に、稲垣が腕を伸ばして、互いの手を堅く握り逢った。この時、二人の間に真の友情が産まれた。
気を取り直して向かい合う様に座った二人は、ウェイターを呼んだ。
そして二人ともハンバーグランチを注文した。
ウェイターが厨房に戻る。
「で、数々の難事件を解決した、名探偵稲垣早希が、今回巻き込まれた事件て、どんなんやねん」
胸にサスケを抱いた宮村が訊いた。
「そうそう。ある劇場で、友達…ていうか仲ようしとる先輩の芸人さんが殺害されてもうたんです。でも犯人は、まだ捕まってへんねん」
「それで私に相談したくて、呼び出したんやね?」
「コナン君やヘイジ君と一緒に、難事件を解決しまくってる和葉はんやったら、何かアドバイスをくれるかもしれへんて思うて…」
「まぁ、あの高校生探偵二人の名推理を毎回間近で見とるからな。自信が無い言うたら嘘になるわ。推理小説も大好きで、よう読んどるし。どんな事件やねん」
「昨日の夜の事なんやけど…」
稲垣は話す前に、グラスの水をぐいっと飲み干した。
毎年東京で開かれるマジック大会。全国から集まったマジシャンが腕を競い合うこの大会では、三年連続で、よしもとクリエイティブエージェンシー所属のアイドルマジシャン小泉エリが優勝していた。
MCは小泉の後輩であり、ライバルであり、親友でもある稲垣早希が担当していた。
熾烈な予選を勝ち抜いて、決勝まで辿り着いたエリちゃんは、何とかライバル達を振り切る得点を獲得して今年も優勝した。
「小泉さんて、そないに優秀なマジシャンなんやね」
宮村が感心して訊く。
「当たり前です。ウチの前でも色々披露してくれてはるけど、凄いんですよ。通天閣の外壁を歩いて登ったり、口から次々と鳩を出して空を埋め尽くしたり、富士山の火口に飛び込んで三宅島の火口から出て来たり。兎に角凄いマジシャンやねん。後輩として尊敬しとります」
「でも…まさか。その小泉さんが殺害されたんとちゃうよね?」
「…その、まさかなんですわ」
生放送終了後。明日の早朝ロケのために、稲垣と小泉は、関西に戻らなければならなかった。二人が共演する早朝の生放送があったからだ。
しかし稲垣は、マジック大会の生放送終了後に、テレビ東京のエヴァンゲリオン特集番組の仕事があった。
そのため、エリちゃんは劇場の楽屋で待機して、稲垣が戻って来たら、小泉の運転する乗り捨てOKのレンタカーで、一晩かけて関西のロケ地まで戻る予定だった。
マジック大会の後、二人は出演者とスタッフでごった返す劇場の食堂で打ち合わせをした。
「徹夜で運転するの辛いから、早希ちゃんがエヴァ特集に出演しとる間に、私はこの劇場の楽屋を借りて仮眠してるから。十二時に起こしに来て。それから帰阪しよ」
「夜中まで楽屋使ってええて、劇場側の許可は取ってあるんですか?」
「夜中になると、警備員さんしか居らんくなるらしいんやけど、その警備員さんに許可もろたわ」
「ほな安心やね」
「あーっと、それと私は、これからレンタカーを借りに行くけど、早希ちゃんは車中で食べる夜食買うて来てね」
「わかりました。エヴァ特集が十一時に終わったら、コンビニ寄って買うときます。ほな、テレビ東京の本番まで、あと三十分しかないから、そろそろ行きます」
「うん、気をつけてね」
「はい、ちゃんと十二時に戻って来て起こしますから、仮眠取っといて下さい」
小泉と約束して、稲垣は劇場を出た。
「それで、どうしたん?」
宮村が続きを促す。
「エヴァ特集は十一時に終わって、テレビ東京を出た後、コンビニに寄りました」
「そして、そのまま劇場に直帰したん?」
「…いえ。お腹減っちゃってて、途中で外食したん」
「何処で何を食うて、何分くらい其処に居ったん?」
「ラーメン屋で三十分くらいかけて、ラーメンと餃子と炒飯と回鍋肉と天津飯と中華丼を食べたんです」
「どんだけ食うたら気が済むねん。それで劇場には十二時までに戻ったんやね?」
「はい、劇場の表玄関は中から施錠されとったから、関係者用の裏口から戻りました。十一時五十五分くらいに。裏口には警備室があって、警備員さんが居ったはずなんやけど、その時は何故か空っぽでした」
「何で警備員が居らんかったん?」
「人に呼ばれて詰め所を離れていたらしいですわ」
「ほな、その時間は、早希ちゃんやなくても、誰でもノーチェックで裏口から劇場に入れたんやね。その後は?」
「エリさんの楽屋に真っ直ぐ向かったんです。そしたら、楽屋が施錠されとらんかって、扉が少し開いていましたん」
「それで開けてみたんか?」
「はい、そしてナイフで刺殺されたエリさんの遺体を見つけてもうたんです…」
楽屋の床の中央で、胸に突き刺さったナイフを握りながら血塗れで倒れる小泉は、まだ意識があるのか、「う…うん」と唸った。
それを見止めて、稲垣は悲鳴にも似た声で叫んだ。
「警備員さん!警備員さん!エリさんがっー!」
警備員は三十秒程で駆け付けて来た。
「うわっ!何だこりゃ!」
五十代の警備員は、血に濡れた楽屋の惨状を見るなり声を上げた。
「エリさん、まだ息があるみたいなんや!どないしよ!」
「本当ですか?!」
「さっき、う…うん、て唸ったから…!」
そう言って稲垣は、まだ小泉が絶命していない事を確認しようと、楽屋に入って、小泉を抱きかかえた。
「エリさん!しっかりして下さい!ウチの声が判りますか?」
「…早希…ちゃん」
「判るんですね?!」
「…私は、もうあかん…最後に…」
「最後に…?言い残したい事でもあるんですか?」
「ういろう…」
「ういろう?他には?!」
「天むす…」
「天むす?」
「エビフリャア…」
「海老が食べたいんか!?」
「名古屋コーチン…」
「名古屋コーチンが食べたいんやな?!」
「…エビフリャア…」
「って、どっちやねん!」
思わず手の甲で、小泉の胸に突っ込みを入れた。押されたナイフが根元まで刺さる。
「…グッ」
小泉はガクリとうなだれた。
稲垣は、黙って立ち上がると、掌を眼前で振った。
「やってへん。やってへん。うちは知らんで」
警備員に向かって、視線を逸らしながら言った。
暫く二人は、そうして気まずい空気に身を委ねていたが、楽屋にあったケトルが「ピー」と、お湯が沸いたのを知らせるアラームを鳴らすと、我に帰った。
警備員が口を開いた。
「あー…の。通報しますね。警察と消防署に…」
「…あ…はい」
二人は警備室に向かった。
警備員が受話器を手にして110番を押す。
そして緊急事態である事を、受話器の向こうに伝える。
「ええ…人が刺されて倒れていまして…。芸能人の方です。え?意識ですか?最初はあったんですが、トドメを刺した方が居て…。え?誰が?被害者と同じ芸人さんの稲…」
「稲妻キーック!」
稲垣が警備員の首筋に延髄蹴りを喰らわせた。崩れ落ちる警備員。代わりに受話器を握った稲垣は、
「兎に角、救急車をお願いします!それと警察も!」と訴えて受話器を置いた。
「ほな、発見した時は、もう息絶えていたんやね」
「そうです。うちがツッコミ入れて、ナイフが根元まで刺さって息絶えたなんて記憶は一つも無いです。皆無です」
「そうなんや…。小泉さん、可哀想に…」
「そこで、ちょっと宮村さんに相談なんですけど…」
「犯人は誰なのか…やね」
「事件の詳細を語りますから、推理してみて欲しいんです」
「う~ん。推理かぁ。その前に、ちょっと待ってくれへん。御手洗い言ってくるわ」
宮村が席を立った。
「直ぐ戻るから、サスケの面倒を見ていてくれへん」
「あ、ええですよ。サスケちゃん、おいで」
そう言って、宮村から赤ん坊を受け取った。
宮村は、店の奥の化粧室に姿を消す。
稲垣は、赤ん坊を抱き上げると、あやすようにゆらゆらと揺らした。
「キャッキャ」
稲垣の腕の中で、サスケは楽しそうに笑う。
そこにウェイターが二人分のハンバーグランチを持って来た。
「御注文のハンバーグランチでございます」
稲垣と、外している宮村の席の前に、熱々のハンバーグが乗せられたプレートを置く。ハンバーグはジュウジュウと音を立てて、湯気を上げている。
「わぁ。美味しそうやぁ」
ウェイターが去ると、稲垣は涎を垂らした。ふと見ると、サスケの視線もハンバーグに釘付けで、口から涎を垂らしている。
「サスケちゃん、あかんで。これは優子ママとウチの分やからな」
言い終えるか終えないかの刹那、胸に抱いていたサスケが、片腕を上げて稲垣の顎にアッパーカットを入れた。
ズガン。
拳が下顎に食い込み、稲垣は一瞬意識を失った。そして椅子ごと背後に倒れる。
「う…うん。何やねん…赤ちゃんが何で、あんなええ拳持っとんねん…」
譫言の様に呟くと、意識を取り戻してフラフラと立ち上がった。
霞む視界にテーブルの上を見る。
サスケがテーブルの上で、熱々のハンバーグを、手掴みで貪っている。
「ンマンマ」実に赤ちゃんらしい、可愛い声を出しながら。
「サスケちゃん…あかんやろ。それは宮村さんとウチの…」
朦朧とする意識でテーブルに寄りかかると、野獣の様にハンバーグを貪る赤ん坊を両手で持ち上げた。
するとサスケは、「ギャーギャー」と大声を出して、身体を捩って抵抗する。
そして赤ちゃんらしい高めのトーンで叫んだ。
「何すんのやボケぇ!わいが今、喰っとんのが、判らんのかい!」
「…サスケちゃん喋れるん?」
驚いて瞠目する稲垣を尻目に、ハンバーグに手を伸ばそうと、もがくサスケ。
「早よ下ろさんかい!このアマ!この絶品ふわとろハンバーグは、わいが喰う言うとんのや!」
呆然とする稲垣が、それでも腕を離さずにいると、サスケは啖呵を切った。
「我、耳の穴から指突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろか!」
そして稲垣の腕に噛みついた。
「いたた!こんな赤ちゃん嫌やー!」
痛みに我に返った稲垣が、赤ん坊を投げ飛ばした。空中をクルクルと回転しながら弧を描いて飛んで行くサスケ。そして壁に激突した。しかし床に叩きつけられたサスケは、ゆっくりと立ち上がって言った。
「姉ちゃん…ようやるやんけ。せやけど、わてかて負けてられへんで」
そしてニヒルな笑みを浮かべると、手近にあった椅子を持ち上げて、稲垣に襲いかかった。
宮村が御手洗いから戻ると、テーブルの上には、何も乗ってないプレート二枚と、口の周りがデミグラスソース塗れの満足そうなサスケが座って居た。そして床の上には稲垣が倒れている。
「何や?何が起こったんや?」
宮村は混乱しつつも、稲垣を抱き起こした。
「早希ちゃん、大丈夫か?」
呼び掛けに目覚めた稲垣は、「う…うん」と唸った。
「早希ちゃん、私の分もハンバーグ食べてもうて、美味しさの余り失神したんか?」
「そっちの方が現実的な仮説な気がします…」
「仮説?ほな何があったん?」
「自分の記憶に自信が無いけど、サスケちゃんとハンバーグを奪い合って、モードチェンジしたサスケちゃんに、コード・トリプルセブンで攻撃された気がします…」
それを聴いて宮村は憤った。
「コラ!サスケ!お母ちゃんが、こっそり伝授した、あの技使ったんか?!」
「ゲプー」
サスケは憮然としてゲップで応えた。
「早希ちゃん、ごめんなぁ。危ない目に合わせてもうて。ハンバーグ、もう一回注文しよな」
宮村に肩を借りて立ち上がると、稲垣は何とか席に戻った。
そして宮村がウェイターを呼び、再びハンバーグを注文する。
その間、稲垣は、どこまで事件について話したか思い出していた。
そうだ、警察を呼んだ所までだ。
「宮村さん…それで事件の続きなんですが…」
「うんうん。続き聴こ」
警察のパトカーが到着したのは、十五分後だった。数台のパトカーから、制服警官に紛れて降りて来たのは、またあのキザなサングラスを掛けたカガチ刑事だった。
先日、奈良の明日香村では、こいつの弟と会ったばかりだ。
また嫌みな事でも言われるのだろう、と稲垣は正直嫌な気分だった。
しかしカガチは、劇場の裏口で警察の到着を待っていた稲垣を見付けると、嬉しそうに駆け寄って来た。
「あー!稲垣さーん!否、早希ちゃ~ん!」
早希ちゃん?そのなれなれしい呼び方に虫唾がさした。
「なぁに馴れ馴れしく呼んどんねん」
「いやー、先日、同僚に誘われてエヴァQ観に行ったんだよ!旧作と序と破は見てないから、ストーリー判んないけど、兎に角面白いアニメだった。あれだろ?要は、お前が物真似しているアスカって娘が正義の主人公で、サードなんとかで世界を滅ぼした根暗な少年が悪役なんだろ?」
「ちょっと違う気もするけど、エヴァQしか見てへんなら、そう勘違いしてもしゃーないわな…」
「な…なぁ、稲垣早希さん。旧作で有名だった、あの台詞あるだろ?人から聴いたんだ。あの台詞を言ってもらうのは、警視総監賞よりも名誉な事だって…。あれ、また言ってもらえないか?」
「言わなあかんの…?」
「是非!因みに俺のファーストネームはイチローだ」
「そういえば、奈良県で、あんたの弟のジローに会うたで」
「ああ、ジローね。家の兄弟は十三人兄弟で、全国の都道府県警に、それぞれ勤めているんだ」
「十三号機まで居るなんて、ネルフのエヴァみたいやな。全部始末するのがしんどいわ」
「なぁ、そんな事より、あの台詞を早く早く!」
稲垣は仕方が無く呟いた。
「イチロー。…あんた、馬鹿?」
するとカガチの興奮はマックスに達し、鼻血を噴き出して失神した。
「なんやねん、その刑事。エヴァファンなん?」
宮村が呆れて言った。
「俄かエヴァファンや。エヴァQしか見とらへんねん」
「まぁ、それは兎も角、捜査が始まったんやね」
「ええ、ボンクラ刑事が担当やから、えらい不安な捜査でしたわ」
楽屋に入室すると、カガチはケトルのお湯に気付いた。
「まだ湯気が上がっているな。誰が沸かしたんだ?」
捜査に同行する稲垣と警備員に訊いた。
「そういえば、ウチがエリさんの遺体を発見した時に、『ピー』て音が鳴っとったから、その時に沸いたんやと思う。刺される前にエリさんがスイッチ押したんとちゃうやろか」
「そうなのか?警備員」
「ええ、確かに音を聴いた気がします。そのケトルは、水を満杯にして、台座にセットしてスイッチを押すと、十分でお湯になるやつですから、私が楽屋に駆け付けた十二時よりも十分程前に、誰かがスイッチを入れたんでしょう」
「誰か…というのは?」
「エリさんならば、ケトルのスイッチに乳綸みたいな指紋が残っとるはずや」
「乳綸?」
「そうや、エリさん乳綸占いの本を出すほどの乳綸好きで、それが高じて、指紋まで乳綸みたいになっとったん」
「そうか、おい鑑識」と部屋の指紋を採集していた鑑識の一人を呼んだ。「このケトルのスイッチん所も頼む」
鑑識係が、言われるがままにケトルのスイッチに黒い粉末を吹きかける。するとセクシーな乳綸みたいな指紋が浮かび上がった。
「う~ん。やっぱ乳綸みたいな指紋が出たぞ」
「ほなケトルのスイッチ入れたんは、エリさんなんかな…」
「十二時に刺されていた所を発見される十分前までは、無事だったという事か。では犯行時刻は、十一時五十分以降って事か?」
「犯人が、エリさんを指した後に、エリさんの指を掴んで、スイッチに触らせたて推測は出来ん?」
「つまり実際の犯行時刻は、十一時五十分以前で、犯行推定時刻を誤魔化すために、被害者が十一時五十分の時点で生きていた様に偽装したと?」
「そう仮定は出来へん?」
「では、十一時五十分前後に、この劇場に居た人間のアリバイを調べよう。おい警備員。劇場に居た人間のリストを作れ」
「リスト…って、その時間には、そんなの作らなくても良いくらい、少人数しかこの劇場には居ませんでしたよ。まず殺害された小泉エリさん。それにマジック大会で準優勝の丹波鳩太郎さん。それに私の三人だけです」
「たったの三人?」
「ええ、ですからリストなんていらないと…」
「その丹波って奴は、ここに居ないじゃないか。何処に行ったんだ」
「大会が終わってから、体調が悪いと言って、暫く楽屋に籠もっていられました」
「その後は?」
「十一時四十五分頃だったかな…。丹波さんから舞台袖の内線を使って、警備室に呼び出しがあったんですよ」
「その丹波ってどんな奴なん?」
宮村がサスケを愛子ながら訊く。
「どんな奴…云われても普通のマジシャンやね。エリさんのライバルの。あの大会では、毎年エリさんが優勝して、丹波さんが準優勝しとった」
「毎年?」
「毎年です」
「どんな手品をする人なん?」
「確か今年の決勝戦では、こう人一人が入れる黄色い檻に自分が入って、お客さんに青の布を被せてもらうねん。そうすると檻の中が見えんくなるやろ。で、一分経ったら布を外すんやけど、そしたら檻の中には誰も居ない…て手品やった」
「檻の中から脱出したていう事なんか?それで何処から出てくんねん」
「観客席の後ろから。たぶん檻の下に奈落があったんやと思いますわ」
「単純な手品やなー。それに勝った小泉さんの手品は、どんなんやねん」
「エリさんのは凄いですよ。変身魔術やった」
「変身?仮面ライダーにでも成ったんか?」
「ちゃいます。マッチョになりまんねん。エリさんが電話ボックスほどの箱に入って、一分経つと、筋肉モリモリのスタローン顔負けのエクスペンタプルズに成って出て来るんですわ」
「…入れ替わっただけとちゃうの?エクスペンタプルズなマッチョな人と…」
「そうやろか…着ていた服が、最初のエリさんと同じゴスロリやったけどなぁ」
「スタローンのゴスロリ、あんまり想像したないなぁ」
「まぁ取り敢えず凄い対決でしたわ」
「まぁ、ええわ。その丹波さんが、その時間に劇場に居ったんやね」「ええ、警備員さんの話しによれば…」
工具を貸して欲しい。そういう内容だった。警備員が工具箱を持って、舞台袖に向かうと、袖に置かれた半分布の掛かった黄色い檻の中に、オレンジ色のパーカーを着た人影が見えた。舞台衣装から私服に着替えた丹波だった。
「丹波さん?工具を持って来ましたよ」
「あー。ありがとう。ドライバー貸してくんない?」
警備員は、工具箱からドライバーを取り出すと、格子の隙間から手渡した。
「檻の床板の蝶番が調子悪くてね。一回外して付け直さないと」
丹波はそう言って、蝶番のビスを回す。
丹波が作業をしている最中。二人は取り留めもない世間話をしていた。
そこに突然、稲垣の悲鳴が聴こえた。
「それで小泉さんの楽屋に駆け付けたんです」
「今は、丹波は何処に?」カガチが訝しげに訊く。
「作業が終わったら帰ると言っていたので、舞台袖に居なければ、もう帰宅したのかも」
すると、カガチは制服警官に命じた。
「劇場内に、まだその丹波が居ないか調べろ。居ない様なら、自宅に急行して連れ戻せ」
「でも…」警備員が物申した。「丹波さんは、十一時四十五分から舞台袖に居て、それ以降は犯行現場に近付いていないのだから、アリバイがあるのでは?」
「十一時四十五分以前に被害者を刺して、舞台袖に移動したのかもしれない」
「それやと、十分でお湯の沸くケトルが、十二時に鳴った説明がつかへんやん。十二時に鳴らすには、十一時五十分にスイッチ入れなあかん。丹波さんは十一時五十分にスイッチを押す事は出来へんねんで。エリさんが自分でスイッチ押した場合でも、犯行時刻は十一時五十分以降になるから、やっぱり丹波さんには犯行は不可能や」
するとカガチは腕を組んで首を捻った。
「う~ん。それじゃあ、丹波は犯人ではないのか…。では外部から侵入した者の犯行?」
「警備員さんは、十一時四十五分に警備室を離れたて言うてましたよね。確かにウチが十一時五十五分に裏口を通った時には、警備室は空っぽやった。それからエリさんの楽屋に向かうまでは、一本道の通路で、誰とも擦れ違わんかった」
「つまり十一時四十五分以降に、何者かが侵入して被害者を刺殺したのか。つまり侵入から刺殺と逃走は、十一時四十五分から十一時五十五分までの間に迅速に行われた…。おい警備員」カガチが睨みながら訊いた。「この劇場は、防犯カメラは無いのか?」
「表玄関とホール内に二つ。裏口には警備員が待機しているので、手間を省いて設置されていません」
「何だよ!犯人が侵入したかもしれない裏口には無いのかよ!」カガチが悔しそうに唇を噛む。「まぁいい。取り敢えず、その映像を見せてくれないか」
「それで、防犯カメラには、何か映っとったん?」
宮村が眉根を寄せて訊く。
「表玄関を映すカメラの十一時五十六分に、扉の摘みを回して開錠して、外に出て行く赤いパーカーの男が映っとりました。フードを被った後姿だけやから、顔は判らへんかったけど…」
「犯人なん?」
「たぶん…。その犯人と思われる不審者は、裏口から侵入してエリさんを刺した後に、表玄関から逃走したみたいなんです」
「…ふ~ん。なるほどねぇ…。それで早希ちゃんは、私にどんな意見を求めたいん?」
そう訊かれて、稲垣は俯いた。
「気になる事があるんです」
「そやね。何で、来た時と同じ様に防犯カメラの無い裏口から逃走せずに、カメラに映ってまう危険を犯して、表玄関から逃走したんか…やね」
「はい。宮村さんも、そう思われますよね…」
顔を上げた稲垣に、宮村は微笑んだ。
「思われるよ。それに、もう犯人も判ってもうた」
「ええーっ!」
稲垣が両目と口をかっぴろげて声を上げる。
「丹波が犯人や」宮村は得意気に笑った。
「な…何でですか?丹波さんにはアリバイが…」
「無いやん」
「あるんとちゃうの?」
「無いよ。何でか知りたいか?」
稲垣が首をブンブン縦に振って、説明を促す。
「ほな、委曲を尽くして説明したるわ」宮村は居直すと、説明を始めた。「まずケトルのスイッチが入れられた時間やけどな。十一時五十分頃とちゃうで」
稲垣は、再び両目と口をかっぴろげて驚いた。
「ええー!何でですか?中のお水が沸点に達して『ピー』て信号音が鳴ったんは十二時丁度なんですよ?」
「早希ちゃんなぁ。楽屋に冷凍室付きの冷蔵庫があらへんかった?」
「…ありました。ケトルと同じで、どの楽屋にも備え付けの奴です」
「ほんで、ケトルは台座から切り離して外せる奴やったんやね?」
う…ん?
稲垣は、何かに気付いて眉を顰めた。宮村の言わんとしている事を察したのだ。
「…そうか…」
「判ったんやね?」
その犯人の狡猾さに驚き、思わず立ち上がって叫んだ。
「氷や!犯人は、ケトルの水を氷らせたんや!」
「その通りや。ケトルの中身を氷らせておいたら、台座にセットしてスイッチ入れても、沸点に達する時間が、水の時よりも遅れよる。せやから、ケトルのスイッチが入れられたんは、十一時五十分よりも、もっと前なんや」
「ほな…。十一時四十五分から舞台袖に居ったていう丹波さんのアリバイは…」
「無意味やね。小泉さんの指紋をケトルに残して、十一時五十分まで彼女が生きとった事にしたかったんやろ。せやけど、ケトルはそれ以前にスイッチが入れられてた可能性がある」
「つまり、もし丹波さんが犯人やったんなら…。具体的に何時何分か判らんけど、まずエリさんを刺して、その後、中身を氷らせたケトルのスイッチを入れ、舞台袖に移動した。そして十一時四十五分になった所で、警備員さんを呼びつけたていう事や」
「そういう仮説になるな」
う~ん。
稲垣は唸ると、深呼吸をして落ち着きを取り戻した。そして立ち上がった勢いで背後に飛んでいた椅子を引き戻し、再び着席した。
「なるほどなぁ…。それやったら犯行時刻を誤魔化せますわ」だがそこで、一つの疑問を抱いた。「せやけど…。犯人が丹波さんやとしたら、防犯カメラに映っとった赤いパーカーの人物は誰やねん。警備員さんの証言では、工具を持って行った時、檻の中に居った丹波さんは、オレンジ色のパーカーを着とったって…」
「うん。当然、疑問に抱くわな。単刀直入に言うとな、赤いパーカーの不審者とオレンジ色のパーカーの丹波さんはな、同一人物やねん」
三度、両目と口をかっぴろげて大声を出した。
「ええー!何でですか?服の色がちゃうやん!」
すると宮村は、長話の末に飲み干していたグラスを振った。カランと中の氷が鳴る。それを斜めに唇に当てて、滑り落ちて来る氷を頬張る。そして緩慢な笑顔を見せながら、ポリポリと氷を噛み砕いた。
「赤い色ってなぁ。ある条件下やと、オレンジ色に見えんねん」
「ある条件下?」
「『色の同化』て言葉、聴いた事あらへん?」
「『色の同化』…。聴いた事ありまへん」
「人間の脳てな。ありのままの映像を視神経を通じて取り込んでも、錯覚を起こして間違った認識をしてしまう事があんねん。その代表的なのが『色の同化』や」
「脳が…間違ってまうんでっか?それが『色の同化』…」
「そうや。例えば青い背景に黄色い檻の中に入った赤い小鳥を絵にするやろ。そうするとな、黄色い格子と赤い小鳥が、脳内で同化して、オレンジ色の小鳥に見えんねん」
「ほほほ…ほんまでっか?それって、青い布が半分掛かった黄色い檻の中に居った丹波さんの状況と同じやん!」
「そうやよ。せやからや、警備員さんの目に映った丹波さんは、オレンジ色の服やなくて赤いパーカーを着とったんとちゃうやろか」
「じゃあ、防犯カメラに映っとった赤いパーカーの人物は…」
「丹波さんやね」宮村は再びグラスから氷を咥えて噛んだ。「丹波さんは、『色の同化』の錯覚が起こる事を知っていて、敢えて檻に入った上で警備員さんを呼んだんや。自分の服の色をオレンジやと認識させるためにな。ほんで予定通り十二時に早希ちゃんが小泉さんの楽屋に行って、その遺体を発見して警備員さんを呼ぶ。その後、舞台袖を離れて、防犯カメラに後ろ姿が映るように表玄関から立ち去ったんや。赤いパーカーの不審者を捏造するためにな」
「何て狡猾な奴…。じゃあ、丹波さんは、ウチが十二時にエリさんの楽屋に行く事も知っとったんですね」
「出演者やスタッフのごった返す食堂で、小泉さんと帰阪の予定を話し合うたて言うとらんかった?それを聴かれとったんとちゃうやろか」
「じゃあ、犯行を思い立ったのは、その時…か」
「以前から、犯意自体はあったんとちゃうかな。ほんで、小泉さんと早希ちゃんの会話を盗み聞きして、実行を思い立った」
「でも犯行の動機は…」
「毎年小泉さんのマジック実力のせいで、自分が準優勝に留まっとったのが意にそぐわないかったんとちゃうか」
「ほな、直ぐに警視庁のカガチに報せへんと…!ウチ、ちょっと電話して来ます」
そう言って稲垣は、店の外に駆け出して行った。
薄暮の東京の街を、西の空へと橙色の夕日が遠ざかって行く。たっぷりと再会を果たした二人は、東京駅に向かって歩いていた。
宮村は明日、オーストラリアの自宅に帰える。しかし、その前に実家のある兵庫県は神戸市に一泊するという。
「ウチも明日は休みやし、実家に帰ろうかな…」
宮村と同郷の稲垣も、実家は神戸市だ。
「ほな、同じ新幹線で帰れるな」
「ほうですね」
夕日を背中に浴びて、紫色の空を見上げながら宮村が言った。
「早希ちゃんもあれやな。お笑い芸人の仕事しながら、名探偵としても活躍しとるなんてエラい大変やね」
「名探偵なんて…。ウチなんか彼氏さんのハットリヘイジ君に比べたらまだまだです。宮村さんが居らんかったら、エリさんの事件も迷宮入りやった。ほんま感謝しとります」
すると宮村は照れ臭そうに俯いた。そして、それを隠すためか話題を変えた。
「早希ちゃん、推理小説なんかは、よう読むん?」
「いえ…あんまり…」
「ほな、列車の中でオモロい推理小説のレクチャーしたるわ」
「ほんまでっか」
「うん。今、三津田信三を読んどるんやけどな…」
そうして二人は、推理小説談義に華を咲かせながら、東京の街を後にした。
一週間後。稲垣は、京都にある小泉エリのお墓のある墓地に向かった。
墓参して、手を合わせる。
「エリさん…。貴女との楽しい日々は忘れません。毎日鼻水垂らしている私の顔を拭ってくれたり、本当に優しい先輩でした。貴女の事は絶対に忘れません。迷わず成仏して下さい…」
すると突然、小泉家の墓石が、ガタガタと音を立てた。
「何や?」
そして墓石の前面が、パカッと開いた。
口を開けた穴から、天冠と白装束の小泉がぬうっと姿を現した。
「…早希ちゃん…早希ちゃん…恨んでやるぅ!お前がツッコミ入れて叩いたから死んだんやないか!呪ってやるからなぁぁぁ!」
「ぎゃー!化けて出たー!」
稲垣は、悲鳴を上げて逃げ出した。
終わり
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