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先生との出会い
最初は家庭教師なんて、いらないと思っていた。
優しい教師の母、勤勉で真面目な銀行員の父。一粒種の自分を愛情いっぱいに育ててくれた二人。心配をかけずに自分だけの力で高校に合格したかったのだ。
家庭教師として紹介された芳原先生はとても物腰が柔らかかった。笑顔になると目がくしゃっと細くなるのが特徴だった。見かけが良くたって……。
反抗して、根を上げてもらおうと授業中に居眠りのふりをした。先生は怒ることもなく文庫本を鞄から取り出し読んで時間をつぶしていた。
授業が終わる時間になると彼は、
「美夏さん、疲れているみたいだね。無理しないでくださいね」
と言って部屋を出て行った。
気まぐれに、手作りの宿題のプリントをやってみた。結果、恥ずかしくなった。苦手なポイントを理解出来るように私のために工夫して作成してくれていたからだ。
心を入れ替えて授業を受けるようになった。
芳原先生からは、いつもバーバリーのメンズのコロンの香りがした。いつからか、その香りを嗅ぐと私は胸が高鳴るようになっていた。
「今日は関数の授業をするよ。美夏さん」
学習机の椅子から近すぎず離れすぎない距離に先生は陣取っていた。
「授業の前に課題について質問はなかったかな?」
先生の声音は低く心地よい。だが、どうもこの声音を聞くと私はなぜか落ち着かなくなってしまうのだ。心臓が「どきどき」して紅茶をつい飲みすぎてしまう。
「はい課題は大丈夫です。以前より一次関数の傾きの意味が分かって速く解けるようになりました」
「それは良かったね。課題に美夏さんが真面目に取り組んだ結果だよ。なすべきことを当たり前にやることだって難しいものなんだよ」
「そうかな」
と心とは裏腹に素っ気なく答えると先生は、目を細めてうんうんと頷いた。
「そういえば随分紅茶を飲んでいたけれど、室温が高すぎるかな」
先生が気遣ってくれた、嬉しい。だが、本当のことは答えられずに、
「母が入れる紅茶が美味しくて」
と嘘を吐いた。
「鈴木先生の入れる紅茶は美味しかったな」
と先生が言った。あれ? 先生はいつ何処で母の紅茶を飲んだんだろう。母は理科の教師だったが、生徒に紅茶なんて振舞っていたのだろうか? 疑問が湧いた。しかし芳原先生の熱心な授業を聞いていたら疑問はいつの間にか沈んでいた。
「美夏さんは、一生懸命だから教えがいがあるよ」
と帰りの玄関で芳原先生が母に言った。
「そう、良かったわ。あんまり勉強のことは心配していないんだけれど、美夏はあがり症のところがあるから。芳原君お願いしますね」
と母が私のことを先生に頼んだのだった。
「大丈夫、最近問題解くのだいぶ速くなったんだから」
とわたしは胸をはって笑顔を先生と母に向けた。
「そうだね。美夏さんの数学に対する成長は目覚しいですよ。鈴木先生、安心して下さい」
と彼はスニーカーを履きながら母に言ってくれた。
「そう、ならいいんだけど。美夏に後悔して欲しくないから」
と私の目をじっと見て母は答えた。
「ではまた来週」
と右手を上げ手を軽くひらひらさせて彼は帰っていった。
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