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ごきげんよう
「お母さん、ただいま」
「おかえり。遅かったのね。寄り道でもしたの?」
靴を揃えて玄関に上がる。
「ちょっと喫茶店に。『サンタモニカ』に寄ったんだ」
「加奈子ちゃんと一緒だったの?」
「同級生の男子と一緒」
私が答えると、母は驚いたがいつもの調子で、
「あら珍しい。夕飯は、あなたの好物のほうれん草のグラタンよ」
と嬉しそうに言った。
「ありがとう。楽しみにしてるね」
言いながら、それでも芳原先生と母のことが気になっていた。
自分の部屋で今日のことを振り返ってみる。兼人さんは、芳原先生が他人に関心を持てない側面があることを教えてくれた。それが、私との出会いで多少変化があったようだと。
私は先生から影響を受けてばかりで、自分が彼に影響を与えることがあるなんて考えもしなかった。まずは直接勇気を出して訊いてみないと! その結果、必要があれば母にも確認しよう。
芳原先生に、
「実は折り入って訊きたいことがあります。次の授業のあと少し時間を取れませんか?」
とEメールを送信した。返事はすぐにきた。
「次回の授業の後だね。いいですよ、美夏さんの頑張りに僕も少しは応えたいですからね」
話はスムーズに進んだ。この機会は、決定的に先生と私の距離を変えるものかもしれないと予感していた。
「美夏、グラタンが出来たわよ!」
階下から声が聞こえた。
「はい。今行く!」
ミーちゃんもリビングに合流して降りていく。
リビングのテーブルの上の料理はかなりご馳走だった。
「やっぱりお母さんのグラタン美味しい。ホワイトソースの甘みとベーコンの塩加減が最高」
熱々のグラタンはやはりおいしくて、自然と箸が進む。他にも優しい味のコンソメスープやシーザーサラダが用意してあった。私は夕飯に夢中になって、玄関の呼び鈴が鳴ったことにも気付いていなかった。
「来てくださったようね」
母が一言。思わず振り返るといつもよりもお洒落な芳原先生がいた。
水色のセーターが似合っている。先生の優しい雰囲気にぴったりだ。セーターからシャツの襟が見えていて、同じブルー系のギンガムチェックが爽やかな印象だ。
あまりに驚いたために、せっかくのコンソメスープを少し吹き出し零してしまった。
「芳原先生、いらっしゃいませ」
どうにか動揺していないふりをして挨拶をしたのだが、先生はくすくすと笑っている。やはりスープを吹き出したのはアウトだった。恥ずかしさに顔から火が出そうだった。
「美夏さん、ごきげんよう」
先生の眼鏡の奥の瞳は温かい光を灯して、私をまっすぐ見つめて恭しく会釈をした。
「お招きありがとうございます、鈴木先生」
「いえいえ、忙しい中いらしてくれて、こちこそありがとう」
今日は皿が多いと思ったけど、まさか先生が来るなんて。さっきメールしたときは隠していたんだな。先生も人が悪い。
「お母さん、今日はいったい何の会食なの?」
「あなたと芳原先生の親睦会よ。さぁ、芳原君しっかり食べてね」
「はい、鈴木先生の料理堪能させて頂きます」
目眩がしてきたけれど、先生と食事を一緒にすることになってしまった。
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