初恋

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初恋

「美夏さん、よく頑張ったね」  芳原先生が一週間前の模試の結果を見て、嬉しそうに朗らかに言う。  いつも私たちには、授業中以外にも一定の距離があり変わることがなかった。しかし今日は珍しく、私に優しい顔をした先生が屈んで目線を合わせてきた。顔が熱くなり心拍数は限界まで上がってゆく。心の中で『近い近い』と叫んでいる。  先生は私の頭に、手をおもむろに置くと軽くぽんぽんとする。これが世に言う頭ぽんぽんというやつなのかと、こそばゆい気持ちだった。  初恋はカルピスのように甘酸っぱく小梅ちゃんのようにしょっぱい。  この日から、芳原先生を男性として意識するようになる。今まで恋愛とは無縁だった私の、初恋の始まりだった。  先生が家庭教師で自宅に来るのは一週間に一回から二回程度だった。私の為、入念に授業の準備をしてくれる芳原先生を、がっかりさせたくない。だから、ますます受験勉強に力が入る。  ただ年の差があること、生徒と家庭教師という関係に、実る可能性がないだろう初恋に胸が痛むことも多い。  とにかく私にとって、先生にとっていい生徒になれるか、無事合格を手にすることが最重要案件だった。  ある日コタツから出てきた私の腹心の友ミーちゃん(十二歳・茶トラ・メス)に、相談してみた。 「ねぇミーちゃん、私ね好きな人が出来たみたいなんだ。その人は、私のことをたぶん何とも思っていないんだ。でもね会って一緒に居られる時間が幸せなんだ」  ミーちゃんはどういうつもりだったのか、一時間近く側にいてくれた。    私は引っ込み思案なところがあり、なかなか子供の頃は友達が出来なかった。幼い頃からミーちゃんは一番の友達だった。彼女が悩みに答えることはない。だが、いつだってしっかり寄り添ってくれているのを感じていた。  自分の部屋のベットにゴロンと寝転がった。天井の板の目の形を眺めながら今日も授業があることを思い出す。予習をしなければと考えながら、なかなか行動に移せずにいた。なんだか気持ちがもやもやしている。そんなとき、部屋にノックの音が響く。 「はい、どうぞ」  と答えると、母がケーキと紅茶を持ってきてくれた。    私はベットから体を起してそれを受け取る。さっきまでの迷いを隠して、 「お母さんありがとう」  礼を言う。彼女はにっこりすると褒めてくれた。 「模試頑張ったね、美夏。今までも頑張っていたことは知っていたわ。でも、あなたの場合は気持ちの揺らぎが大きいのが成績不振の原因だったから、短期間で合格点に届くのは難しいと思っていたのよ」 「芳原先生の教え方が上手いからだよ」  と私は答える。本当は他の要因も大きいのだが、母にはどうしてか知られたくなかった。 「芳原君ね。彼は心根が優しい青年ね、美夏は気に入ったのかしら?」  母の思わぬ質問にびっくりして、ティーカップを落としそうになる。 「芳原先生になら、どんな人でも好感をもつんじゃないかな」 「そうだったの、良かった」  母は柔らかな笑みを浮かべると、部屋から出ていった。
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