こんにちは、かがみさん

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 お袋の提案を断って俺だけ一人鏡を抱えては電車に乗り、周りの視線を一身に浴びながら帰宅する。正直恥ずかしかった。  鏡そのものはそこそこ大きさがあるから結構嵩張り、案の定玄関に入った途端あちこちぶつけてしまった。  ちょっと申し訳ない気持ちを抱きながらなんとかワンルームの中心へとたどり着くと、あの屋敷ではわからなかったことがここで気づいてしまった。  意外とこの鏡、大きい。  俺の身長が170㎝台後半で、その俺の半分くらいの大きさなのだからそこそこあるのはわかるはずなのに、あのまあまあ広い屋敷の何もない部屋の中にポツンと置かれていたら感覚がバグる訳でして。  一度ワンルームの中心に抱えていた鏡を降ろして置いてみると、嵩張るのなんの。  家具と言ったらベッドとちゃぶ台と安っぽい座椅子とテレビ台、本棚と食器棚代わりの3段カラーボックスくらいしかない簡素な部屋だが、正直言って鏡が邪魔。凄く邪魔。持ち帰ってきたのを後悔するくらい邪魔。  さてどうしたもんかと、嵩張る鏡をあーでもないこーでもないと動かしながら定位置を探る。どこに置いてもとにかく生活の導線を塞ぎ、邪魔で違和感が凄い。元々狭めなワンルームということもあって、壁際に寄せて置いても突然現れた無機物に、圧迫感がヒシヒシと伝わってくる。自分の語彙力が無さすぎる為、とにかく邪魔としか言えない。落ち着かん。  結局、鏡はちゃぶ台とセットで使っている座椅子真横の壁際という1番落ち着かない位置に定着したのだった。ちゃぶ台そのものが結構壁よりにあるため、俺の落ち着きは犠牲になった。悲しき。  定位置選びに偉い時間を消費してしまい、ベランダから外を覗けば、黄昏時から夜に片足を突っ込んでいた。  明日も普通に大学がある俺は慌てて学生らしい簡単な夕食をぱぱっと作っては胃に押し込み、使い終わった食器を適当に洗い流して食器ラックに立てかける。そのまま流れ作業が如く茶色のカラーコンタクトレンズを外して風呂に入ったのだった。  祖父の屋敷で長い時間遺品整理をしていたこともあって、好みの温度で溜めたお湯に浸かると程よい熱さが身に染みる。そのままウトウトと船を漕いでいると、ハッと思い出した。静かに天井を映していた湯船のお湯に波紋が広がる。  そうだ、貰い物の白ワインがあったんだ。  翌日大学があろうが、体が労働で悲鳴を上げていようが、酒を前にしたらそんなもんは関係ない。  俺は即座に簡易食糧庫につまみになれそうなものがないか、脳内検索にかけ、ヒットと同時にスターターピストルよろしく湯船から飛び出した。  右手にはお楽しみの白ワイン。左手にはバイトの給料日にちょっと奮発して買ったスモークオイルサーディン。その左手の小指に引っかかるは百均のマグカップ。ワイングラスなんて小洒落たアイテムはこの家にはない。  鼻歌交じりに定位置の座椅子に座り込んで、小さな宴の準備をすれば後は楽しむだけ。  雰囲気はさいあ……もとい、あまりよろしくないがこれしかないんだから仕方ないマグカップに注がれた白ワインを口に含むと、ワインにしては珍しく非常にフルーティな甘みが舌を通ったかと思えば、その甘みの中に程よく酸味が混ざっている。ヤバい、これはヤバいぞ。語彙力無いからこれ以上の格好いい言い回しはできないが、これは絶対止まらなくなるやつだと俺の脳は言っている。  ワインを一口飲んだところに、ちょっと奮発したスモークオイルサーディンを一口齧る。ただのイワシの油漬けだからイワシそのものの味が強いが、スモークされているため燻製独特の煙の香りが鼻を抜けていく。鼻に燻製の香りを残したまま、また一口ワインを含むとこれまたどう表現していいのか俺の語彙力では大変難しいが、とにかく美味い。白ワインとスモークオイルサーディンの無限ループが完成する。疲れも吹き飛ぶし、顔も思わず綻ぶってもんだ。すまんな、食レポできないタイプの人間で。  止まらなくなった無限ループを終わらせないためにマグに2杯目のワインを手酌で注ぐ。なんとなくふわふわして焦点が定まらなくなる…なんてことはなく、どこか身体はポカポカとしてきて心地よい。風呂でお湯につかっている時の感覚とはまた違った心地よさに、ずぶずぶと羊水につかっているような錯覚に陥り、ずるずると座椅子からずれ落ち軽く寝そべってしまった。日中の作業の疲れも相まって、またウトウトしてしまう。まだ春先だからこのまま寝てしまえば風邪を引きかねないが、正直このまま寝たら気持ちいいだろうなと脳が完全に疲労と酔いでバグりつつあった。  でも舌はまだ無限ループの味を味わいたく、ワインの入った安っぽいマグカップを片手にスモークオイルサーディンにまた手を伸ばして口に放り込んだ時だった。  たぷん……と祖父の家から持ってきた鏡の表面に波紋が広がった……ように見えた。  一瞬だった出来事に、姿見の方を向きながら目を見開き、オイルサーディンの尾を口から出したまま固まる。せっかくの酔いも醒めるってもんだ。  姿見を凝視したまま、ずれ落ちていた体勢を整える。人間、怖いことや驚いた出来事を前にするとそこから目線が外せなくなるんだな。  何分鏡を凝視しただろうか。ただそこには口からイワシの尾っぽを出して緑色の瞳を真ん丸とさせた情けない自分が映っているだけだった。あまりにも情けなくて、とりあえずイワシの尾っぽを口の中へと収める。  疲れもあるし、何より酔っぱらっていたんだ。俺の見間違いだったんだと自分に言い聞かせて顔の向きを鏡から手元のマグカップへと戻す。  もう一口飲もうとマグカップを口元へと運んだ瞬間。  たぷん。  目の端から見える鏡の表面にまた音もなく波紋が広がった。  流石に見逃せない現実に、また勢いよく目線を顔ごと鏡へと向ける。  たぷん、たぷん。  今度は2つの波紋が鏡に広がった。  がっつりその現象を確認してしまい、波紋の広がる鏡の中の俺は顔を引きつらせている。  たぷん、たぷん、たぷん。  まるで雨が降っているかのようにどんどん波紋の頻度が増え、スピードも速まっていく。  たぷんたぷんたぷんたぷんたぷんたぷんたぷん!  そしてついには波紋の量が限界を超え、鏡に映っていた自分が歪みに歪んで見えなくなった。  程なくして、あんなにうるさかった波紋はピタリと止んだ。しかし鏡から目を外せない。  何故なら、俺の前に一人の少女が鏡に映っていたからだ。  俺の後ろに背後霊よろしく映っているのならまだわかる。いや、わかりたくないしそんな現象は丁寧に梱包し直して匿名で返送するレベルで嫌だけど、まだ理解はできる。  その少女は鏡の中で俺の前に立っているのだ。もちろん俺の前には誰もいない。強いて言うなら持ち帰った鏡だけだ。なのに鏡の中では、俺の前に誰かが遮るように立っているのだ。  その少女は、最近流行りの服装をした可愛いらしい子ならばそこまで恐怖を感じないのだが、残念なことに真っ白の時代遅れな浴衣を着ており、顔は長い黒髪で隠れていて表情がわからない。怖い。  人間あまりの恐怖を前にすると動けなくなると何かでチラッと聞いたことあるが、どうも俺も例外ではなかったようだ。恐怖で奥歯が震えてカチカチ鳴っているのに目を背けることができない。  ただただ鏡の中を凝視することしかできずにいると、中の少女はこちらへと手を伸ばす。もちろん、その掌は鏡の中で押し付けられる。まるで鏡の中に閉じ込められているようだ。いや、鏡の中でしかその存在はいないんだから当たり前か。  手のひらは何かを確認するかのようにぎゅっぎゅっと何回か押される。その度手のひらの肉は押されて少し広がる。なお手のひらの肉は普通の人間と比べると白い。血の気がないともいう。  諦めたのか、少女は手のひらを鏡から離した。  しかし次の瞬間、指先を勢いよく鏡に向けて押し付ける。  普通であればそのまま押し付ければ突き指待ったなしだ。しかし突き指どころか、また鏡の表面に波紋が広がり、人差し指が無機質であるはずの鏡の表面を突き抜けている。  そのままずぷずぷと人差指が鏡の内側から外側へと突き進み、気が付けば手一個分が鏡の外側に出ていた。俺は相変わらず恐怖と動揺で1ミリも顔を動かせないでいる。  次にそれは鏡の内側に頭をゆっくり押し付ける動作をした。その動きは非常にゆっくりだが、確実に頭が内側から外側へと出てきている。それはまさに水面からゆっくり顔を出しているようなものだ。硬くて無機質な鏡の表面が、水面とほぼ変わらない感じに頭が出てくる振動で波紋が広がっていた。  だらんと下に垂れた頭から顎、顎から肩へとゆっくりと出てくると、最初に出ていた手は腕まで出ており、腕を広げたかと思えば鏡を外側から押し付ける。そのまま腕立て伏せの要領で押し上げれば、ずるずると上半身が勢いよく出てきた。まさにテレビ画面から出てくる貞子のそれのようだった。貞子の鏡版と言えばわかりやすいだろうか。  だらんと下に垂れていた頭が、歯車が動き出したカラクリのように異質な動きでぐるんと前を向き、黒い髪から除く目が俺を捉える。  目が合った。思わず狼狽えてしまう。何故なら、その目は生きた人間の目をしていなかった。目の形は人のそれのはずなのだが、生命を感じないというか生気じゃないというか、とにかく人間のそれではなかった。死んだ魚の目とかそんなレベルではない。むしろ死んだ魚の目の方が人間している。いや人間しているってなんだよ。  俺の存在を捉えたそれは、一瞬目を見開いた……ように見えた。何故なら髪に隠れていてよく見えないのもあるが、人間の目をしているのにしていない矛盾に、人間の俺が表情が読み取れる訳がない。でも何故だが狼狽えている脳の片隅で「こいつは今驚いた」と認識したのだ。  それは鏡から上半身を出したまま、生気を一切感じられない細い人差し指をこちらへ向ける。その指先は徐々に俺の目線まで上がり、そして、閉じ気味だった手はゆっくりと開いた。  それの目線は未だに俺を捉えている。  ……いや、俺のエメラルドグリーンの目にターゲットを絞っている。  そのまま、生命を感じられない手はターゲットを絞った俺の目に一切迷いなく真っ直ぐに進める。  タキサイキア現象とはこう言うことか、と割とピンチで恐怖を覚えているはずの俺の脳はどこか冷静に分析していた。だって俺の目に映る俺以外の全てがスローモーションで動いている。例の手も俺の目を目掛けて進んでいるが、かなりゆっくりに見えている。相手が何者なのか知らないし知りたくもないけど、多分きっと恐らくお化けだと思われる存在の動きがここまで遅いものだろうか。個人的にはもっとこう…俊敏な動きをするイメージが強い。ホラー映画とかそうじゃない?え、そうでもない?でも時計の秒針の音がいつもよりゆっくりに聞こえるからタキサイキア現象で間違いないんじゃないかな。  1ミリ、また1ミリと俺の目を狙う手…というより鏡から這い出ているそれ。逃げるにも、非現実なそれに恥ずかしくも腰を抜かしてしまっている俺は、そこから逃げることを許されずにいる。某脳内を分析するお遊びのウェブサービスに名前を入力したら大半は「恐」で占められているであろう俺の脳は、数少ない冷静さに全て頼ってこの展開をどう切り抜けたかフル回転させる。もしかしたら急速に回転しだしたモーター音が聞こえるかもしれない。いや、ロボットじゃないからそれはないか。でも心境としてはそんな感じだ。  刻々と近づくそれ。  ——ばしゃり。  突如濡れそぼったそれ。髪が心なしかさっきより潤ってしっとりしている。  そう、咄嗟に取れた行動がこれだ。手元にあった飲み途中の白ワインをそれにかけたのだ。日本酒ではないから効果があるかわからないが、古事記だか何かには山葡萄でシコメを足止めしたし、欧米でも神の血だとか聖なる飲み物だとか言うから多少は効果あるだろう。いや、あると信じたい。白だけど。  突然白ワインをふっかけられたそれ。ゆっくりと動いていたのに、今ではピタリと止まっている。というか震えている。  ……震えている? 「アホかオマエ!」  突然の純粋な罵倒。今まであんなに生気のなかった目はくわっっ!と開かれ、一歩間違えればヨダレが垂れそうだった中途半端に開かれていた口元は今では力強く大きく開かれている。  もちろん、そんな力強い罵倒を俺に浴びせられるのは目の前の化け物だけでして。唐突に罵られた俺はただただ目をキョトンとさせることしかできない。 「他人にいきなり酒ぶっかけるとかどんな教育受けてんや!」  なんかお化けに説教されている。  いやその通りですけど。 「というかコレめっちゃいい酒なんじゃないのか⁈うわっ、もったいな!」  ソウデスネ。 「うわー、超久しぶりに外出れて懐かしいもん見れたから今度こそ奪ったろと思ったのに、いきなり超いい酒ぶっかけられるとかないわー」  ……それにしてもこのお化け、随分と流暢な人間の言葉を話すこと。 「そこなニンゲン!ちょっと酒消したら説教するからそこで正座して待ってろ!」 「アッハイ」  流暢な人間語を話すお化けはズビシッ!と俺に人差し指を向けると、その体勢のまま器用に鏡の中へと消えていき、とりあえず俺はマグをちゃぶ台に置いて鏡の前で正座しておいた。 「さて、いきなり酒ぶっかけた事に対して何か言うことあるだろ」  鏡の中へと消えていったお化けはしばらくすると、乾燥した状態になって白い浴衣を着た長い黒髪の美少女がまたズルリと鏡から出てきた。そのまま俺と対面するようにして胡座をかき、腕を組んだ。  そして先程のあのホラーはどこへやら、目はイキイキとしている。むしろ怒りの炎が見える。 「……ハヤクジョウブツシテクダサイ?」 「そこは『ごめんなさい』だろーがっ!」  俺が首を傾げて言うと、お化けはべしんっ!と勢いよく床を叩き、その乾いた音に俺は肩を跳ね上げる。 「オマエ、絨毯の上や服の上に酒こぼした事あるか?めっちゃ酒臭くなるんだぞ⁈それを他人に意図的にかけるか⁈それもめっちゃいい酒を!高いんだからもったいねーだろ!今のでいくら金飛んだ!」  ただひたすらガミガミとお化けに説教される。でもお化けは白い浴衣を着た美少女の姿の為、正直言ってあまり怖くはない。むしろお化けの癖に人間臭い事で怒っているから呆気に取られているというか何というか。 「あ、いや、これ貰い物の白ワイン」  「ならいいか」  いいのか。 「いやよくねーよ!」  ですよねー。 「どっちにしろ酒がもったいない!」  ははーん、さてはこのお化け、少女の見た目していながらかなり飲兵衛だな? 「はー……長いこと封じられてやっと出て来れたと思ったらコレだもんなー……」  両手を床につき、胡座をかいたまま軽く仰け反ったお化けは盛大にため息をつく。なんかもうこのお化け、人間臭くてさっきまでこれに怖がっていた自分が非常に情けなく感じる。  仰け反っていたお化けは勢いよく体勢を整え、俺の目を真っ直ぐ見てニヤリと口角を上げて何か物を寄越せと手をこちらへ向ける。 「まー、これはアレだよね。お詫びが必要よね」 「嫌な予感しかしないけど、例えば?」 「そりゃあ怪異らしくお命頂戴とか」 「やだよ」 「キッパリ断られた!」  そりゃあ断るよ。 「そもそもあんた何モンなんだよ。人間ではないのはわかるけど」  あまりにも人間臭いお化けで忘れていたが、これは突然鏡の中から現れた存在。お化けであるのはほぼ確定だろうけど、そのような妖怪は少なくとも俺は知らない。都市伝説とかでよく鏡の中にとかは聞くが、そもそもあれらはもっとホラー要素が強い訳でして。 「……ボクのこと知ってどうすんだい?」  目をパチクリとさせるお化け。 「どうするって……別にどうもしないけど、突然現れたかと思えば説教するし」 「それはオマエが酒ぶっかけるからだろ」 「うぐっ」  グサリと心に刺さる人間的正論。いやでもお祓いと言えば酒と塩でしょ。 「それに相手の名を聞く前にまず自分から名乗るべきでは?」 「最近のお化けは正論を言わないといけない決まりでもあるの?」  俺の言葉にやれやれと呆れるお化け。 「それにオマエが先に名乗れば名を奪ってボクの支配下におけるし」 「やだよ」 「デジャヴ!」 「そんなこと言われてハイそうですかと名乗る人間はいないと思うぞ」 「ぐぬぬ……」  人間的正論を相手に突き刺せば、今度は相手が言葉に詰まっている。ふはは、思い知ったか。  ちょっと愉悦に浸っている俺を見たお化けは、うぬぬだのぐぬぬだの言いながら、どうしたもんかと考えているのがヒシヒシと伝わってくる。そして何か思いついたのか、どこか諦めたように言葉を発し始めた。 「はー、もういい。別にオマエの名を奪ったりしないから、さっさとそっちから名乗れ」  右手を床についてそっちに軽く重心を傾けながら、左手をヒラヒラと動かして、どことなく上から目線な言葉に、未だに不審がっているとジト目で見られる。 「久々の現世にはしゃいで確かに最初は怪異らしく命や名を奪ってやろうとは思ったが、このままじゃ先に進まないからな。とりあえず命と名は奪わないと約束する。だからまずオマエから名乗れ」  相変わらずお化けは左手をヒラヒラと動かしながらジト目で見てくる。言うなれば、子供な行動を取る大人を呆れた目で見ている感じだ。  お化けにここまで言われ、怪しさ満点で信じていいのか甚だ怪しいが、正直相手の目線が痛い。 「……葡萄原(ぶどうはら)京護(きょうご)」  相手の出方に注意しながら、ゆっくりと名乗る。 「……葡萄原……京……」  俺の名を聞いたお化けは、はたと止まり、どこか懐かしさを噛み締めるかのように俺の名の一部を口の中でごちた。 「どうした?俺の名がそんなに変か?」 「ああ、いや、随分と珍しい名字だなと思っただけだ。しかし、そうか……葡萄原ねぇ……」  何か思い当たる節があるのか、お化けは顎に指を当ててどこか思考を巡らせる。 「まあいいか、今は名前なんてどうでもいい」 「おい」 「その名字とその目を持つオマエになら言っても、まあ、大丈夫だろう。ボクは鏡の怪異。この星に存在する鏡に関する都市伝説や怪奇現象、神秘やオカルト関連の総合概念体と思ってくれ」  この人間臭いお化けはそう名乗るも、オカルト関係にそう詳しくない俺はイマイチピンと来ない。 「妖怪とは違うのか?」  純粋に理解できてない俺は、素朴な疑問を怪異だと名乗る本人に投げかける。 「妖怪でもあるし、神でもあるし、都市伝説でもある」  淡々と返されたその言葉に余計混乱し、ちょっと時間頂戴とジェスチャーで伝えれば鏡の怪異と名乗りしお化けは律儀に待ってくれた。とりあえず頭抱えて整理する。 「えっと、とりあえず鏡のお化けってこと?」  無い頭で必死に出した結論を口にすると、お化けに盛大にため息を吐かれた。解せぬ。 「お化けは本来ある姿から大きく変わったもの。ボクは現象の概念体だからどちらかと言えば妖怪に近い」 「でもさっき神でもあるって」 「ああ、それはボクが付喪神の可能性も秘めてるし、そもそも日本人は鏡を御神体として祀る習慣があるから神としての概念も混ざっているんだ」  腕を組み、片目を閉じるももう片目は横を……正確にはちゃぶ台の上に置かれているワインボトルを見ている。 「ちょっと待って、神の要素もあるのに怪異なの?というか妖怪と怪異の違いって何?」 「ボクを神として祀ってる数より怪奇現象や都市伝説として語り継がれてる数の方が多いからね。怪異については……もういい、オマエが持ってる手鏡サイズのよくわからん機械で調べろ」  一々説明するのが疲れたらしく、もう全部俺のスマホに丸投げした鏡の怪異。知識が乏しくてごめんなさいね。  枕元で充電していたスマホを這いつくばって取りに行き、定位置の座椅子に戻ると鏡の怪異が勝手に俺のマグを奪い取って白ワインを手酌しながらおつまみのスモークオイルサーディンを食べていた。  勝手に晩酌を奪われているのを横目に、多分質問責めにしてももう答えは返ってこないだろうとどこか確信している俺は、言われるがままにスマホで妖怪と怪異の違いを調べた。  妖怪とは……日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。  ——もちろんスマホで検索して開いたページは、誰もが一度はお世話になっているであろうフリー百科事典のWikipediaからだ。  なかなか難しい言葉が羅列されており、頑張って俺の足りない頭で内容を噛み砕く。多分だけど、日本で昔から信じられている超常現象などのオカルティックな存在でいいと思う。そもそも妖怪なんて今では物語や漫画で取り上げられているからニュアンスでなんとなくわかる人が多いのではないだろうか。俺もそうだ。  では怪異とは何なのか。検索エンジンの検索欄に怪異とはとフリックで入力していく。  検索ボタンをタップしてしばらく読み込むと、いくつかの辞書サイトがヒットした。だがフリー百科事典のページは作成されていないようだ。代わりに自分がよく使う辞書サイトをタップし、解説を読んでいく。  怪異とは……現実にありえないような、不思議な事実。またその様。  ……なるほど、怪異は現象を指すのかと一人納得していたところに、2つ目の解説が目に入る。  [2]化け物。変化。妖怪。  ……やっぱり妖怪と怪異は何が違うのだろうか。また改めて頭を抱えていると、そういえば一時期ハマっていたアニメで似たのがあったな、と概要の一部が思考の端に現れた。確かあの作品では妖怪や神にあたり、都市伝説や信仰、噂などによって生まれる存在を怪異としていたような気がする。ということは、俺の目の前にいるこの……人の酒とおつまみを貪っているこれはそれに似たような存在なのだろうか。 「えっと……とりあえず怪異の中に妖怪が存在しているって認識でオッケー?」 「んー?」  呑気にオイルサーディンの尻尾を口から出して食べている。本当にこれはあの作品に出てくる怪異と同じなのだろうか。 「その、怪異を都市伝説や信仰とか噂などで生まれる妖怪や神として取り扱ってたのがあったなと思って」 「あー、うん。微妙にニュアンスは違うがもうそれでいいよ」  口から出ていた尻尾をシュポっと口の中にしまい、マグを豪快に煽ったかと思えば言葉を発した鏡の怪異。 「そもそもボクという存在は人間には到底理解できないさ。何てったって怪異だからね」 「じゃあなんで紹介したんだよ」  一瞬目を細める鏡の怪異。 「んー、オマエが言えって言ったから。あと理解してくれんじゃないかなとちょっと期待したのも半分」  飄々と語ったそれは、追加でオイルサーディンに手を伸ばす。だからそれは俺のだって。 「……そういや」 「んー?」 「あんた、長いこと封印されてたんだよね?」  俺の言葉に、うげっと顔をしかめる怪異。それでもマグは離さない。 「封印されてた……という割には未だに鏡に関する都市伝説とか多い気がするんだが」 「あー……」  何か気まずそうに俺から目を逸らす怪異。 「それこそニンゲンに理解できない内容なんだが」 「理解するかしないかは俺次第だけど、とりあえず説明を求める」 「オマエって変に強欲だな?」  しょーがねーなー、とかごちりながら追加のワインをマグに注いでいる。いや、あの、だからそれ……。 「えっとだな、今ここにいるボクはオマエらニンゲンの言うところのアバター?みたいな存在だ。鏡の怪異そのものの本体は鏡の中の奥深くにある。“ボク”はあのクソニンゲンに封じられていたが、他の“ボク”は動けるからね、楽しく遊んでいるんだよ。そもそも“ボク”と他の“ボク”は基本的に記録の共有はしないから他の“ボク”はもっと怪物に近い姿になることもあるし“ボク”の経験したことなんてこれっぽちも知らない。ただ、どうしても忘れたくない記録があれば鏡奥深くの、それこそニンゲンでは到底到達できない場所にいる本体の“ボク”に記録を刻むことはあるけどね」 「ごめん、理解が追い付かない」 「ほら、言っただろうが」  爆発寸前の頭をまた抱えていると、そんな俺をまた呆れた目で見ながら一口ワインを飲む。もういい、飲んでろ。 「さて、そろそろ本題に入らせてくれ」 「あっはい、どうぞ」 「命くれないんなら、その目を寄越せ」  酒を飲みながら、俺の目に指を向ける怪異。 「はい?」 「その宝石のような緑の目をボクに寄越せ」  聞き返すと、同じ内容を、言葉を変えて言い直してくれた。そしてマグをようやっとちゃぶ台に置く怪異。 「その目はボク達のような存在にとって大変魅力的なものなんだ。だから寄越せ」  有無を言わせない勢いで再度同じことを言われる。心なしか怪異の目力がすごい。確かに雰囲気をまとっていれば誰でも畏れを覚えるだろう。 「……具体的にどうやって?」  あまり考えたくない行動が脳内をかすめるが、相手は怪異。何かマジカルな方法で取るのだろうかと期待して確認をとるも、何言ってんだこいつときょとん顔で見られた。 「そんなのオマエ、抉り取るに決まってるだろ」 「やだよ」 「わがままだなーこのニンゲン!」 「誰だって目を抉られるのは嫌だよ!」  相手は腐っても怪異、やっぱりやり方がえぐかった。 「あのなー、ボクが命を奪わない代わりに目を寄越せって言ってんだからいいだろ?」 「そんなお化け倫理人間には通用しませーん。そもそも生きてる間に目ん玉をお化けに取られるとか誰だって嫌だよ」 「ふーん?」  俺の言葉に何か思い付いたのか、目力が若干弱まる。 「じゃあ死んでからならいいんだな?」  何かを確信したかのように確認を取ってくる鏡の怪異。 「……いや、嫌だけど……でも生きてる時よりはいいのか?普通に天寿を全うしてからなら悔いはないか……?」 「ふーん、じゃあさ。こうしようよ」  表情がクルクル変わって、今度はニッコニコといい笑顔をしている。鏡の怪異なだけあって、人間の表情を真似するのはお手の物なんだろうか。 「ボクはオマエの命を奪うような事はしない。むしろあらゆるモノからオマエを護ろう。それこそオマエのその目は妖に好まれやすい、先に取られたらボクが困るからな。そういう存在からボクはオマエを護る。その代わり、オマエが天寿を全うして死んだらその宝石のような目をボクは頂く」  どうだ、悪くないだろ?と俺に同意を求める怪異。  相手が言いたいことを簡単に脳内で整理すると、要は怪異と契約しろということだ。  そうとなれば、答えは簡単だ。 「やだよ」 「もうそれ聞き飽きた」  俺の揺るぎない意志を相手に示せば、なんとも表現しづらいが明らかに嫌がっているんだなとわかるくらい顔のシワというシワをしわくちゃにして、ペチンと手のひらで床を叩いた。いやその表情器用だな、俺にはできんぞ。流石鏡といったところか? 「もーなんでだよーどこからどう見てもニンゲンには好条件じゃないかー」  今度は後ろに倒れたかと思えば、そのままゴロゴロと床を左右に転がり、納得いかんと駄々をこねている。  でも相手は人外。人間社会で生きてきた人間からしてみればそれはもう否定する要素としては十分だ。 「いや単純に信用できない」 「えー、じゃーどうすりゃあ信じてくれるんだよーねーねー、その目を頂戴よー」  相変わらず床をゴロゴロ左右に転がっている。こうして見ると、こいつは妖怪というより、ただの女の子がただひたすら駄々をこねているだけだ。畏れが足を生やしてスタコラ逃げて行った。 「あのなー……人間だってバカじゃないんだ。怪しい存在が提示する契約ごとの裏には何かあるってわかってるし、そもそもあんたが怪異だと言ってる時点で誰だって身構えるんだよ」  今度はこっちがため息をついて、呆れた目線を相手に送る。  ゴロゴロ左右に転がっていた怪異は、俺の言葉にピタリと転がるのをやめる。でも大の字で、天井を見ていた。怪異だから大丈夫だろうけど、正直浴衣の中が見えそうで思わず目を逸らす。 「……それって、要はオマエに信用してもらえればいいってことか?」  大の字で天井を見たまま俺に投げかける。  俺がその疑問に答えようかどうしようか考えあぐねていると、相手は返事なんぞ受けつけんと言わんばかりに勢いよく起き上がり、そのまままた胡坐をかいた。 「よし、決めた!」  ……嫌な予感しかしない。 「オマエがボクのことを信用して契約してくれるまでここに居座る!」  それはもう人間らしいいい笑顔で、俺にズビシッ!と指を向けて宣戦布告してきた。  でもここで相手が提示してきた契約内容を思い出してほしい。 「あんたそれ、俺が信用して契約してもここに居座るだろ」 「まあまあ細かいことは気にするな」  もうそうすると決めたと固い意志がひしひしと伝わってくるのがよくわかる。相手は勝手に機嫌がよくなり、ちゃぶ台に置いていたマグをまた手に取って残り少ない白ワインを注いだ。 「あー、そうそう」  注ぎ終わって役目の無くなったワインボトルをちゃぶ台に戻し、またマグを口に運んでぐびぐび飲んでいた怪異は何か思い出したのか言葉を続ける。 「ボクってぶっちゃけ鏡だからこれと言った姿も性別もないんだ。本来は概念体だから肉体なんて持たないし。今は色々とあってこんな姿だけど、今後居座るにあたってなんかなってほしい姿とかあればいいぞ?例えばオマエの好きな子とか」  どうする?と視線を送ってくるも、相変わらずワインをぐびぐび飲んでいる。 「いや、別にそのままでいいけど」 「え?」  予想外の返事だったのか、あんなに口から離さなかったマグが口から離れた。 「好きな子になってもらったところで、本物を前にしたときにややこしいことになりそうだしそもそも好きなやつとか今はいないし」 「うわっ、寂しいやつ」 「うるさい。それに友人の誰かになってもらったって結局は男だし、男と同居とか正直むさくるしくて俺が嫌だし……見た感じ時代は違えど少女の姿を取ってるみたいだからそのままでいいよ」  今のあんた中々可愛いし、とは絶対こいつには言ってやらん。 「え……オマエそういう趣味だったのか……?」  俺は出会ったばかりの怪異にうわぁ……とドン引かれる。失礼だなこいつ。 「そんな趣味もないし、今後なるつもりもない」 「そうか、あったら今この場で呪詛送るところだった」 「恐ろしいな、流石お化け」 「へへーん、すごいだろすごいだろー。でもお化けじゃなくて怪異な、か・い・い」   ドヤッと胸を張り、心無しか怪異の鼻がちょっと伸びているような気がする。  しかし美少女のドヤ顔というのはなかなか可愛いもので、本来ならばイラッとくるはずの表情・態度が美少女ってだけで許せてしまうのだ。わかるか?この気持ち。美少女がドヤ顔するだけでこっちの顔が綻ぶってもんだ。  だが忘れるな、こいつは怪異だ。  俺は必死に真顔を取り繕う。なんなら今必死で頬の内側を噛んでいる。 「ということでしばらくよろしくね、ニンゲン」 「しばらくって何十年の話だ。おい、待て!」 「じゃーねー、またあしたー」  怪異は後ろを向いたかと思えば、そのまま俺に向けて手を振ってずぶずぶと鏡の中へと消えていった。
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