01 菖蒲華

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 動揺したまま家まで走って帰った。さすがに、途中息切れがしてペースは落としたけれど。部屋に入り、やや冷えた室内の温度になぜだかほっとした。 「ただいま」  返事はないと分かっていても、“あのこ”に声をかける。朝よりもふんわりした印象だ。少しでも長く咲かせていたい。  そう思った瞬間だった。 「さむい」  “あのこ”の声だった。 「わたし、あたたかくなったらさくの。だから、さむいのはいや」 「こうしたら長く咲けるの」 「さむいとながくて、あたたかいとみじかい?」 「そう。私はあなたに長く咲いていてほしいと思った。とてもきれいだから」 「はやくおわってしまってもいいの」 「どうして?」 「それではやくおわったとしても、わたしらしくありたい」  その声は切実なようで、でも楽しそうで、確信に満ちている気がした。  たから私は、泣きそうになりながらエアコンを切った。普段なら、まだエアコンは使わない気温だったから。 「ありがと」  かすかに声が聞こえた気がした。  なるべく自然な状態で、水をこまめに替え水切りをした。でも、火曜の朝、起きたときにはほとんどの花弁が落ちてしまっていた。月火と、気温は上がっていたから。  立ち尽くしていると、本当にかすかに“あのこ”の声が聞こえた気がした。 「ありがと」  その日は、朝から雨が降り続いていた。  お気に入りの淡い桜色の傘を差して、仕事に向かったけれどやはり気持ちは沈む。  それに、今まで大切にしていた花はどうだったのだろう?“あのこ”と同じに、自分らしくあることを望んでいたとしたら?  そうだとしたら、私がしていたことは只の自己満足だ。    漸く仕事を終えて、帰途に着いた。  また、eternalの前を通る道を歩いていた。でも、新しいお花を買う気にはなれない。どう扱ったら良いか分からない。店に入れず佇んでいたら、穏やかな声が聞こえてきた。たぶん、店長さん。 「どうしたんですか?」 「あの子が……」  そう言うと、何が起きたか察してくれたみたいだ。労るような表情に見えた。だから、考えなしに口走っていた。   「エアコンは嫌だって……だから」 「はい?」  伝わるはずがないことに気付いて、慌てて誤魔化した。 「いえ。あの子の代わりを探す気持ちになれなくて。でも、お花がないと気持ちも晴れないんです」 「グリーンは如何ですか?」  私は恥ずかしいのに、気遣ってもらえたことが何だか嬉しくて、自分がどんな表情をしているか分からないから俯いた。 
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