第十章 デクレトリ

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 ごく短い秋を経て、季節は冬になった。湖上の城はこれまでに経験した覚えがないくらいに寒く、ルフィナはリーナから貸してもらった袖無しの毛皮の長衣を冬中手放すことが出来なかった。冬になれば湖の氷が凍って歩けるのではという期待は儚く消え去った。確かに湖は凍りついたが、人間の重さに耐えうる強度からはほど遠いものであった。  冬に入ってからは、週に一度は訪れていたバルウェルトとリーナも滅多に顔を見せなくなった。ルフィナは暇をもて余し、より一層フェルディオ宛の手紙を書くのに精を出した。手元に届いたフェルディオからの手紙は机の上でうず高く積み上がり、掃除するエーラによって時々崩されたが、ルフィナは意地でも元の高さに戻し、斜めになりながらも絶妙な均衡を保っていた。掃除の邪魔になると度々エーラから文句を言われても、ルフィナは止めようとしない。手紙の高さこそがフェルディオの愛情の深さを示すバロメーターのように思えるから。  「何て寒さでしょう。また雪ですよ」  木を暖炉に次々と放り込んでしまうと、エーラは両手を揉み絞った。くる日もくる日も雪の日だ。風が全部吹き払ってしまうので、積もることはない。が、厳しい寒さには変わりない。  「ところで、ご夫君はいつになったらデクレトリにおいでになるのでしょうかね」  雪のせいで、トゥーランから戻ってくるはずの使者もどこかで足止めを喰らっているらしい。フェルディオの返事が届く前に、ルフィナはまだ読んでもない手紙の返事を書いてるところだった。  「さぁね。春に新国王の戴冠式が行われるから、少なくともそれまでにってことはないわね」  逝去した前王の息子は十四歳になっていた。トゥーランでは成人と見なされる年齢だ。  「何も問題なければ、戴冠式が終わり次第来てくれるわよ」  そう、今度こそ会える────  ルフィナはその希望だけで、どうにもならない現状に堪えているようなものだった。  生活に不自由はない。ここでルフィナと関わる者たちは皆、言葉少なではあっても敵意など微塵も感じさせない。ルフィナは好きな時にどこへでも好きなように行くことができたし、小さな船着き場でさえ歩いていけた。ただし、そこから先は無理だった。いつの間にか穏やかな北部訛りを話す男が近付いてきて、"それ以上はご遠慮下さい"とやんわり引き留められるのだ。  が、ルフィナは一階の台所に直接繋がる橋桁の下にボートがあるのを決して見逃さなかった。いつか"その時"が来たなら使うことになるかもしれない。小さな手漕ぎボートだが、二、三人が乗るには十分の大きさだ。もっとも、ちゃんと使い物になる代物かどうかは怪しいものが。  「バルウェルト様は本当にお二人を引き合わせて下さるおつもりでしょうか?」  ルフィナは、鋭く暖炉の火の具合を見ているエーラの丸い背中に目をやった。  「バルウェルト本人がそう言ってるのだから、会わせてくれるでしょうよ」   バルウェルトが────と言うよりも実際はリーナがだが───夫婦がいつまでも引き離されたままではおかしいと言い出した。フェルディオにデクレトリへ来てもらえばいいと、提案してきたのだ。    「そうであって欲しいものです。ただ……あまりに親切過ぎやしませんかね」  「罠だって言いたいの?」  それはルフィナだって何度も考えた。キニーの時のようにフェルディオを誘き寄せておいて、彼の命を盾に王位継承権を放棄するよう迫るのではなかろうか────  『仮にそうなったとして、あの時みたいに拒絶できるかしら』  そんな自信などない。結果的にキニーは死んでしまった。その悲しみと後悔は一生かけても消えるものではない。  「人は見かけによらないものです。親切そうに見える人ほど疑ってかからねばなりませんよ」  「分かってるわよ」  人を信用出来ないなんて、何て世の中なんだろう。ルフィナはそうぶつぶつ呟きながら、手紙を書き進めた。  文字にはせずとも、二人は常にルフィナの逃亡を念頭に置いている。フェルディオが本気でデクレトリに来るなら、まさか身一つでは来ないだろう。ルフィナを奪還するそれなりの策を持ってやって来るはずだ。  エーラには常日頃から、いざという時の為に荷物をまとめて置くようにと言っておいていた。元々シーズに出かけた時から大した物は持っていっていなかったが、それでも家族の形見やらフェルディオの奇妙な肖像画やら常に手元に置いておきたい物は少なからずある。エーラは指示された通りにそれらを革の袋に詰めて、壁際の衝立(ついたて)に引っかけていた。これならいつ何時でも外へ持ち出すことができる。  それから丸々二日経って、待ちかねたフェルディオからの手紙が雪道の泥濘(ぬかるみ)で泥だらけになった使者によってもたらされた。それはルフィナに何十回も読み返された後、"手紙の塔"のてっぺんに堂々と鎮座した。        
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