第十章 デクレトリ

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◇◇◇  凍てつく寒さの冬も、いつしか春へと変わりつつあった。春は何よりルフィナの待ち望む季節であった。とは言え、まだ毛皮の長衣は手放せない。湖の氷は溶けても、ダリヤ城に吹き付ける風は容赦なく冷たい。  この頃、再びバルウェルトがリーナを伴って訪れるようになっていた。エーラと二人きりの暮らしは時に暇をもて余していた為、二人の訪問は大歓迎だった。バルウェルトは終始穏やかで、一方のリーナはやや甲高い声でよく喋った。エーラから警戒するのを忘れるなとの助言をいつも頭の片隅に置きながら、ルフィナは週一度の彼らとの会話を楽しんだ。  バルウェルトがもたらしてくれたいくつかの知らせの中には、当然トゥーランのこともあった。フェルディオからの手紙でとっくに知ってはいたが、遂にトゥーランの新国王の正式な戴冠式が行われたのだった。話によれば、大層盛大な式典であったそう。これでようやくルアージュ王子もお越しになりますね、とリーナはまるで我がことのように喜んで言った。  「そうなると、夫とはこの城で会うことになるのかしら?」  それとなくルフィナが尋ねてみる。たちまち、リーナとバルウェルトは気まずそうに顔を見合わせた。  「えぇ、そういうことになりますわね」  「兄は夫まで私と一緒にここに閉じ込めるつもりでいるの?」  「まさか」  言葉に詰まっているリーナに代わって、バルウェルトが返事を引き継いだ。  「そのようなことはございますまい。そもそも陛下が王女殿下を私どもに託されたのも、妹君が悪しき輩どもに利用され、心穏やかでない暮らしを強いられるのを心配なさってのこと。状況が落ち着けば、ご夫婦揃ってお好きなところへ行くことも叶いましょう」  『よく言うわ。心穏やかでない暮らしを私に強いているのは一体誰よ』  ルフィナは立ち上がり、わざわざ窓辺に立って湖の彼方の薄紫に霞む森に目をやった。その方向のずっと先にトゥーランがあることをルフィナは知っていた。  「メリオンとトゥーランは隣国でありながら、これまで両国の間で特に大きな争いごとが起こったことはなかったわね。トゥーランの代々の王たちは賢かったのね。隣国と領土争いをしても、時間とお金の無駄と分かってたのでしょうよ。お陰でメリオンはよその国と戦わずに済んだけど、国の内側ではずっと内輪揉め続きね」  「その内輪揉めを止めることが出来るお方が、ただお一人だけおられます」  バルウェルトはいつもと変わらぬ温和な口調ではあったが、声の奥深くには刃のような鋭さが潜んでいた。ルフィナはそんなバルウェルトを見て、まるで牙を隠している狼みたいだわと思った。  「もしも、あなた様が────」  「私は何の取引もしないわよ、バルウェルト」  バルウェルトが何も言い出せない内に、ルフィナがぴしゃりと言い捨てた。  「お兄様はそれを望んでいるんでしょうけど。私は何があろうと自分が持っている権利を兄の為に手放すつもりはありません」  「何のことでしょう、私はただ────」  「ルアージュ王子の身に何かあれば、当然トゥーランは黙ってない。兄はメリオンの国内の"反逆者"と同時にトゥーランの国境にも目を配らなくてはならなくなるわよ」  バルウェルトがほんの一瞬だけ見せた鋭い牙は、もうその柔和な表情の下に綺麗さっぱり隠されてしまっていた。  「私が殿下のご夫君に良からぬことでも企んでるとお疑いなのですか?」  ダリヤの城主は心外だと言わんばかりに、かつては美しい金髪だった白髪混じりの頭を振った。  「とうに隠遁暮らしのこの年寄りに、一体何が出来ましょう? 恐れながら、妻も私も王女殿下が少しでもこのデクレトリで安楽に暮らせるよう、お手伝いすることしか考えておりませんのに」  それきり話題は他愛ない日常的なことに変わった。リーナがほっとしたようにそちらの話題へ飛び付いた。リーナとしてはルフィナに味方したい気持ちはもちろんあるだろう。ただ、他の模範的な夫婦同様に夫に逆らう勇気が彼女にはないのだ。  その後も、これまで同様二人の訪問は続き、表面上は何事もないように時は過ぎた。しかし、パルウェルトの思惑を知ってしまった以上、やはりフェルディオがダリア城に入るのは危険だとルフィナは思い始めた。フェルディオには会いたい。かと言って、夫婦共々兄の虜囚になんかなりたくない。  『会うなら、この城ではないところじゃないと』  次第にそんな考えを巡らせるようになった。でも、どうやったらここを出られる? もうここ何年もそればかり考えてるわね、とルフィナは自嘲気味に笑った。 『何かもっともらしい理由があればいいのよ。ダリヤ城は夫婦が再会する場所には相応しくないって、迷信でも言い伝えでもいいからないの?』  ルフィナの机の上にそびえ立つ手紙の塔の高さは、なおも記録更新を続けていた。そんなある夜のこと、いつものようにフェルディオ宛の手紙を書いていたルフィナは、何気なく手元を照らす燭台の方に目をやった。  最近替えたばかりの蝋燭の炎がちらちらと揺らめいている。普段なら気にも留めないことだった。しかし、この夜のルフィナは何か不思議な力にでも導かれているかのように、その炎から目が離せなくなっていた。
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