第十章 デクレトリ

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 男はまた小さく頷いた。  「王女様のことは、いつも大変お気の毒に思っていました」  「ここから南へ行くにはどう行けばいいのかしら?」  目指すのは、母や叔父のいるグラステスだ。北部のデクレトリから南部のグラステスまで、一体どれくらいかかるのか。逃亡に備え、常々想定してきたにもかかわらず、いざその時が来てみると何一つ思い出せず、急に不安が募り出す。  「この湖のこちら側を回り、向こうの森の縁をたどって行って下さい。しばらく行くと三角の屋根の家があります。そこに俺の友人が住んでいます。ザックに言われてきたと言えば、一晩かくまってくれるでしょう」  それから、男はすまなさそうに言った。  「俺はこれからパルウェルト様の所へ火事の件を知らせにいきます」  「いいのよ。これから先は私たちで何とかするから」  ルフィナは心からの感謝を伝え、いつかこの恩に報いるからと固く約束し、その場で男とは別れた。 ◇◇◇  ザックと名乗った男の祖父がギグリン出身だったのは、何とも幸運なことだった。推測でしかないが、恐らくゲルネル出身の母を持つルフィナに密かに親近感を持ってくれていたのだろう。が、こうしてはいられない。ザックが時間稼ぎをしてくれるとは思うが、いずれ追っ手が迫るのは間違いない。  「行きましょう」  手元に明かりはない。半分に欠けた月が空にあるだけ、まだましだと思うしかない。全く馴染みのない場所を夜半に歩くのは、大層困難であったが、意を決して二人は足を踏み出した。  言われた通りに湖の縁をたどっていく。ダリヤ湖は思っていた以上に大きい。長時間歩くのに適してない靴のせいでもう足が痛くなったが、どちらも文句を言わずに歩き続けた。やがて、ザックが言っていた三角屋根らしき家に行き着いた。  エーラが確認しに行っている間、ルフィナはがたがた震えながら待っていた。春とは言え、夜はかなり冷え込む。着の身着のままで出てきたので、ほぼ部屋着に近い格好だ。エーラは出てきた男と話し、間違いなくここがザックの友人の家だと確信してから戻ってきた。  「中に入るように言われました。参りましょう」  ルフィナにとって、庶民の家に足を踏み入れたのはこれが人生初めてであった。畑仕事を生業としていると思われる男には妻と三人の子どもがいた。たった一つの部屋に五人でも十分に多いが、そこに二人が加わるとさらにぎゅうぎゅうだ。もちろん、文句など言えない。全く旅支度もしてない身で、風と寒さをしのげる場所に恵まれただけで十分ではないか。  家の主はルフィナにベッドを譲ろうとしたが、既に子どもたちが寝てしまっていた。なので、炉の近くで毛皮にくるまり、エーラと身を寄せあって夜を明かした。日の出と共に起き、男の妻が温めてくれた夕飯の残り物のスープと固いパンをありがたく頂いた。今までところ、追っ手が迫っている気配はなかった。  男が用事で隣町へ行くので一緒に行きますか? と提案してくれたので、それに乗っかることにした。ルフィナたちは一晩の宿の礼にと着ていた服を男の妻に与え、代わりに彼女の着古した服をもらった。体の大きなエーラには、わざわざ近所の家から調達してもらった。こうして、違和感だらけではあるが、格好だけは庶民らしくなった。  ロバの引く荷車の上で他の荷物に紛れながら、二人はダリヤ城から次第に離れていくのを実感した。もう城は見えないが、煙らしきものが一筋細く伸びているのは見えた。城は今もまだ燃えているのだろうか?  「とうとうダリヤ城から出られましたね」  エーラが感慨深げに呟いた。昨夜から立て続けに色々とありすぎて、一つ一つを思い返す余裕もなかった。今ようやく落ち着いて考えてみる気分になった。  「全く油断は出来ないけど、とりあえず第一歩は踏み出せたわね」  ルフィナはうーんと大きく伸びをして、顔を上げた。雲一つない晴れた朝だった。エーラの方はまだルフィナほど清々しい気分にはないようだ。  「ルフィナ様は考えがあって、あのような行動を?」  「火事のこと? いいえ、全く考えてなかったわ。蝋燭の炎が私に命令しなかったら、あんなこと思いつかなかったでしょうね」  「炎が命令したんですか?」  エーラの目がまん丸になった。  「何なんですか、それは?」  「知らない。でもね、炎がびゅーっと伸びて、大きな口を開いてこう言ったの。『ルフィナ、行け!』ってね」     あの声の主はリアドだったような気がするが、リアドには未来が見えても、ああした類いの魔術は出来ない。空耳だったのだと思う。それでも、久しぶりにリアドのことを思い出したお陰で、ルフィナの心はぽっと温かくなった。  『リアドか、どうしてるかしら』  もうリアドへの後ろめたさとか罪悪感だとか心残りだとか、そうした感情はなくなっていた。今では、ただただ懐かしい幼なじみ、幸せな思い出を共有する大切な友人でしかない。  『カトレアーナの祝祭に行った日も、こんな荷馬車に乗って行ったっけ』  あの時と違うのは隣にいるのがエーラで、この先待っているのは楽しい祭りなどでなく、想像もつかない逃亡生活だ。ザックがパルウェルトにどう報告をしたか知らないが、未だ追っ手の気配はなかった。ルフィナとエーラはナトレという小さな町で、一晩かくまってくれた男と別れた。  
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