第十章 デクレトリ

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 祈祷書、祖母の形見の装飾品がいくつか、それからフェルディオからの手紙が三通と彼の肖像画────  これが、ルフィナの現時点での全財産だ。金は持っていない。ナトレの目抜通りの脇で、農夫の妻が持たせてくれたパンを噛りながら、ルフィナとエーラはこれから先のことについて話し合った。  「お金をどうにかしなくちゃね」  手持ちのもので金と交換できそうなのは、装飾品ぐらいだろう。ルフィナが真っ先にどれを売ろうかと、革袋の中身を漁っていると、     「お金なら、私が少しばかり持っていますよ」  エーラが胸の辺りを叩いて言った。どうやら、財布を首から紐で吊るして持ち歩いていたらしい。  「いつかこんなこともあろうかと、準備しておりました。ただ、それほどたくさんはございませんので、贅沢はできませんよ」  「しないわよ。一応、私は庶民だってことにしてるのに」  こんな格好で散財なんかしてたら、一発で身元がばれてしまう。  「ここからグラステスに行くには、どの道を通ればいいって?」  エーラは先ほど一人で市場へ出かけていって、それとなく情報を集めてきたのだった。エーラは落ちていた板の切れ端を取り上げて、地面に幾筋かの線を書き始めた。  「ここがナトレとしますよね。この道を行きますと、隣町のリジャに通じ、それからさらに南下していくと、バースレムの街があって────」  エーラの描く線はどんどん伸びていく。つまり、かなりの距離を行かなければならないということだ。  「私たち、歩いていくの? たどり着けるかしら」  ルフィナは歩くのにうんざりしていた。昨夜、ダリヤ城から農夫の家まで歩いただけなのに、もう足がつりそうに痛い。  「グラステスよりこちら側に、どなたかお味方の方はおられませんか?」  「マイサーに従姉のミナリが嫁いでたわね。それでも、だいぶん先よ」  ルフィナはため息をついた。せめて馬があればと思うが、馬は高価だし、エーラの手持ちのお金では全然足りないだろう。やっぱり、装飾品のどれかを売ろうかしら。ルフィナは再び革袋を覗き込んだが、こんな小さな町で王族が持つような宝石なんか売れば目立ってしまうと思い、諦めた。  「仕方ないわ、地道に行くしかないわね」  腹が満たされ、気持ちに少し余裕が出てくると、しきりにフェルディオのことが思い出された。新国王の戴冠式が無事に終わり、今頃トゥーランを発つ直前だったのではなかろうか。あと少しで会えたのに。それだけが心残りだ。  とは言え、デクレトリで会うのはやはり危険だった。フェルディオまで自由を奪われるなど、あってはならないことだ。再会するのであれば、兄の意志が及ばない場所でなければならない。デクレトリからこんな形で姿を消して、また心配させるわねと申し訳なく思う。しかし、グラステスでだって会えるし、むしろその方が彼にとっても安全だ。  『楽しみがちょっぴり延びただけ。そう思えばいい』  ルフィナは中にフェルディオの手紙と肖像画が入っている革袋をぎゅっと胸に押しつけた。エーラはそんなルフィナを横目で見ながら地面に書いた地図を板切れで消し、立ち上がった。  「そろそろ、出発いたしましょうか」  隣町のリジャまでは近いので、今日中にそこへ行き、夜は宿を取ろうという話になった。時々、速駆けの馬が二人を追い越していき、その度に心臓がどきりとしたが、誰かに呼び止められることは全くなかった。予定通り、夕方前にはリジャに着いた。さて、宿を探そうとしたその時、ルフィナは誰かに跡をつけられているのに気付いた。  エーラを肘でつつき、エーラもまた心得たように頷いた。二人は早足から急いで走り出した。とうとう追っ手に追いつかれたのか。やっとの思いで逃げ出したのに、こんなところで捕まりたくはなかった。  「エーラ、頑張って!」  エーラが脱落しかける度に、ルフィナは何度もそう言って励ました。細い路地を何回も曲がった。追っ手らしきものはルフィナたちを見失ったのか、もう足音は追いかけてこなかった。  ほっと息を吐いた瞬間、今度は前方から人影が歩み寄ってきた。ルフィナははっと身構えた。と、  「私はあなたの味方です、王女様」  ルフィナの肩ぐらいしか背丈がない小柄な男だった。毛皮を器用に継ぎ接ぎした胴着をかぶり、真っ黒の髪と黒々とした目をしていた。もちろん会ったことものない顔であった。が、この男に共通するものを持つ他の人間をルフィナはよく知っていた。肩で息をしながら、ルフィナはおずおずと尋ねた。  「あなた……ヨーレン谷の一族の人ね?」  小柄な男は大きく頷いた。  「はい。私の住む場所では〈草人〉と呼ばれています」  メリオンに古くから住む彼らは、その土地土地で様々な呼び方をされていることをルフィナは思い出した。  「オーロンと申します。グラステスにいる仲間から伝言を受けました。王女様をお守りするようにと」  グラステスにいる仲間って、リアドなの? と尋ねてみたが、返ってきた答えは知らない名前だった。リアドの指図だろうがなかろうが、頼りになる人が現れてくれたことは喜ばしいことではあった。  オーロンは早速ルフィナたちの前に立ち、彼しか通れないような細い路地へと誘導していった。町の奥へ奥へと行った気でいたのに、いつの間にか町の外へ出ていた。ふと見回すと、ルフィナらが歩いているのは一般の道ではなく、丈の高い草に隠れるように掘られた深い溝のようなものだった。これがヨーレン谷の一族が使うという例の地下通路なんだわと、ルフィナは納得した。    
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