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「……左手のためのピアノ曲があるのをご存知ですか」
処置に当たる飛鳥を安置室に残し、鈴富夫人を控え室に案内すると、彼女は声を絞りだすようにして語りはじめた。
「数こそ少ないですけれど、目新しいわけではありません。有名なのはサン=サーンスの練習曲、ラヴェルの協奏曲……ただそれらは、事故や病気によって左手でしか演奏できない人のために作られたものなんです」
「要は、おまえの夫はそういう音楽で食っていたという話だろう? 手指の不自由な依頼人を抱えていたわけではないのか?」
ついてこなくていいのについてきて上座を占拠しているヴェスナの言葉を受け、夫人はうなだれる。
彼女は深夜の葬儀社に難なく侵入したこの男を何だと思っているのだろう。断じて錠野葬祭の関係者ではないことを、あとで言い含めておかなければ。
「はい……左利きだった夫の道楽、腕試しでした。その楽曲をいくつかの演奏会で、ほんの軽い気持ちで披露した結果……『左弾きのメサイア』なんて呼ばれることに」
印象的な異名。
鈴富氏について調べた者が必ず記憶に留めるだろうそれは、本人が望んで掴み取ったものではなかったらしい。
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