1話 手首はどこへ消えた?

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「夫の右手は健常です。曲が売れ、出演依頼が増えるに伴い、鈴富のパフォーマンスは誠実さに欠ける売名行為だという批判も広まりはじめました。独善的で信念のない、薄っぺらなピアニストだと。  夫は……私たちは、それを否定しきれませんでした。普通の曲では充分な収入を得られず、メサイアの評判を頼りに活動するしかなくなっていたのですから。  ……あの人の心はゆっくりと蝕まれていきました。やがてピアノにも触れなくなってしまって……ついには、左手を……」  くずおれて涙する夫人に、ヴェスナは労るような声音で囁く。 「右手を切り落とし、胸を張って『左弾きのメサイア』を名乗る道もあったろうにな」 「誰がそんな火に油を注ぐような道を選ぶんだ」 「ふむ? 世に聞く炎上沙汰というやつか」  炎上で済めばまだしも、下手をすれば外科から精神科に移送されて二度と出てはこられないだろう。否、それでも棺に閉じこめられるよりはよかったのかもしれないが──  手首の切断だ。リストカット以上に、生半可な覚悟では実行できない。  しかし彼は自らの命とともにメサイアを葬り去った。  遺される者の悲しみを、自身の苦しみより低く見積もったのだ。
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