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「お別れの会場に、旦那さまのピアノを搬入することも可能ですが」
「えっ……」
腫れあがった瞼を見開き、夫人は絶句した。
「お、大きいですよ……? ただでさえデリケートな楽器ですし、取り扱いには注意いただかないといけなくて……」
「アンティークのガラス壺をお運びしたこともございます。運搬用トラックも腕のいいスタッフもご用意できますので、ご安心いただければと」
あくまで葬家のための提案であり、押しつけがましくなってはいけない。
晴澄がそれ以上言葉を連ねないことで短くはない沈黙が流れたが、夫人はやがて初めての、ひび割れた微笑を見せるのだった。
「……最初から手首じゃなくてピアノを持っていくべきだったのね。本当に馬鹿なことをしました……。
それならきっと、あの人の気持ちも晴れますよね。空の向こうで……今度こそ、純粋にピアノを楽しめますよね?」
「もちろんです、奥さま」
笑顔のぎこちなさは隠せないので、晴澄が笑い返すことはない。
だがこんな人間でも、真摯に生者と向きあってさえいれば、表面的には卒なくやっていけるものである。
「──心にもないことを」
傍観者の冷笑は、夫人が鼻をかむ音と重なって、彼女には聞こえなかっただろう。
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