蛸と天女

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 太平の世も末期に近づいた文化十一年、夏の或る夜、草木も眠る丑三つ時に天女が忍びの者のようにこっそり江戸に舞い降りて来た。目的は日本随一の絵師、葛飾北斎に自分の超絶的な肉体美を描いてもらうことにあった。  天女は一般庶民の女に変装して昼間、町人らに引っ越しを頻繁にするという北斎の所在を訪ね歩き、北斎が住まう長家付近まで来た所で或る商人がこんな独り言を呟くのを耳にした。 「あの変わりもん、画工料の包みごと放り投げやがった!儲けた、儲けた」  変わりもんとは北斎に違いないと天女は勘付き、磊落で奔放な性格に似つかわしく不用心にも玄関引き戸が開け放たれた北斎の住まいの前に到頭やって来た。 「御頼み申します!」  鈴を転がすような美声を耳にするや、北斎の娘の応為(おうい)が今まで暑くて胸をはだけていたので慌てて衣紋を繕って押っ取り刀で部屋から出て来て団扇を煽ぎながら上がり框に立った。 「うわあ!すげえ別嬪さんだ!あんた、雛型になりなよ!」 「まあ、物分かりがお早い娘さんだこと、わたくしもその積もりで参りましたの」 「何、この人!言葉遣いまで上品でやんの!ちょっと、親父!すげえ上玉が来たよ!」 「何、上玉?」天女が来るまで応為に団扇で煽がれ腹ばいになりながら絵を描いていた北斎は、手を休めて言った。「じょうだま言っちゃあいけねえよ」 「何、駄洒落言ってんだ!こればっかりは冗談じゃねえよ。今、証拠を見せてやるからな。さあさあ、入って来ておくんなせえ!」  天女が勧められるが儘、三和土に踏み入ると、「な、なんと!」と北斎は叫ぶなり年寄りとは思えない身のこなしですっくと起き上がった。「あんた、こんなあばら家へ何しに来なさった!?」 「はい、わたくし」と天女は言って買っておいた北斎の好物だという大福餅の包みを上がり框に置いたかと思うと帯として巻いていた羽衣に手を遣って、あろうことか驚くべきことにそれを解き出し、絽の着物を脱ぎ、長襦袢も脱ぎ、裸体を惜しげもなく曝け出した。「この体を北斎様に描いてもらいたく存じて参りましたの」  これには滅多に動じない北斎も応為も半端なく面食らって舌を巻き、「はやー!!」と驚嘆の声を上げた。  北斎が猶も口をあんぐり開けて見惚れているのを横目に応為が言った。 「お、おい!親父!雛型として雇わねえ手はねえよ!銭あるか?おい!親父!」  北斎は念を押されて、はっとして、あっ、しまったと気づき、「さっき、取り立ての米屋に包みごとやっちまった」 「べらぼうめ!どこまで金銭感覚ねえんだい!」 「す、すまん、めんどくさかったもんで」 「このすっとこどっこい!包みぐらい開けて勘定せえや!」 「す、すんません」 「全く、もう!金があればあるで着服され、金がなければないで催促され、これだからいつまで経っても赤貧なんだよ!」と応為は大いに嘆くと、天女に向き直った。「あの、そんな訳で雇う銭がねえんだ」 「良いんです、お金なんか、只、わたくし、北斎様に描いてもらいたいだけなんですもの」 「えっ!銭、いらねえの!」 「ええ、お金なんてわたくしには何にもなりませんもの。良かったら何枚もお描きになって、お売りになってしまわれればよろしゅうございます。そのお稼ぎになった中から気持ちだけもらえれば結構でございます」 「おい、聞いたかよ、親父!」 「あ、ああ・・・」と北斎は放心しながら受け取った。「あの、兎に角じゃ、わしらならいざ知らず幾ら暑いとは言え、其方みたいな別嬪がすっぽんぽんじゃ誰か来るといけねえから早く御召し物を着なされ!絵師がこんなことを言うのも何じゃが、目のやり場に困っていかんよ」 「はい、分かりました」と言って天女が直ぐさま言われた通りにすると、北斎は相変わらず見惚れながらも呑気な感じで悠長に言った。 「ま、見ての通りむさ苦しいところじゃが、どうぞ上がりなされ」  そこはむさ苦しいどころの騒ぎではなく四畳半のスペースにミニマリストだから物は少ないとは言え、描き損なって反古になった紙屑が散乱していたり、食品容器だった籠や竹皮のごみの山があったり、飛び散った絵の具で所々汚れていたり、筆を片付けていなかったり、蚊遣りの焙烙が置いてあったりで足の踏み場もないと言っても過言でなかった。おまけに蜘蛛の巣を張った儘にしている上、北斎は身なりが至って汚ならしくみすぼらしくて碌に風呂に入らず垢まるけで汗臭く寝具から湧いたシラミが体にも着物にも蠢いていて蚊にもあちこち刺されている始末なのだ。  しかし天女は返事をしてから大福餅の包みを拾い上げると、委細構わずすたすたと上がって行き、北斎の前に端座してお辞儀した。 「お頼みしますからには詰まらない物ですが、どうぞこれを」 「おう、進物か、これは気が利く。わしの大好物じゃ」 「お気に召していただけました?」 「ああ、勿論じゃ。しかし其方、何故?わしの嗜好を?」 「ええ、わたくし、北斎様のお噂を小耳にはさみまして」 「ほう、そんな噂が何処で?」 「はい、天上界で」 「はぁ?天上界?」 「ええ」 「そう言えば、その帯」と言って北斎は鷹のように鋭い目を羽衣に注いだ。「見たこともない代物じゃなあ」 「これ羽衣ですの」 「と、言うことは、まさか其方、天女さん?」 「その通りでございます」 「おい、聞いたか?」と北斎に呼びかけられた応為は、柄にもなく驚きっぱなしで言った。 「道理で綺麗な筈だ」 「こりゃあ、わしにも運が向いて来たのかな」と呟いた北斎に、「おい、隣の小僧を呼んで来て茶を淹れさせな」と言われた応為は、土瓶を持って急いで隣に行った。この親子、暇さえあれば絵を描いていて時間が惜しいと言うので料理をしなければ茶を淹れることさえ無いのだ。 「お構いなく」と天女が言うと、「いや、お客さん、況して天女さんと聞いてはお持てなしせんと」と北斎は言って立ち上がった。三度の飯は買って来たり貰ったりした食品を容器に入った儘、食べ、茶を淹れないので茶碗二つしか食器を持っていない北斎は、その両方を天女の前に置いて座り、戻って来た応為から土瓶を貰い受けると、茶を注いで饅頭でも買って来なとまた応為に命じた。  応為もお持てなししなきゃと思っていたからなけなしの銭を持つなり家を飛び出した。 「ほんとに構いませんのに」 「いや、そういう訳にもいきませんて。天女さんに出来るわしのせめてものことじゃ。さて、大福には目がねえから失礼ながら花より団子という訳じゃなえが、先にいただくとするか」と北斎は言うと、大福餅に手を伸ばした。  その後、北斎は花を観賞しながら団子を味わうといった具合に大いに舌鼓を打ち、応為と共に天女と楽しく駄弁るのだった。
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