本編

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ゆずるは怯えていた。翌朝唐突にあの豪奢な檻から出るように言われたと思ったら、これまた絢爛な食堂へと通され、対面に無表情のジェラルドが座っていたからだ。出されたふわふわのオムレツも喉を通らなかった。 ジェラルドは何も語らない。口は咀嚼するためだけに開き、閉じる。それを繰り返す。西洋人の青い瞳と言われてイメージするのにぴったりな碧眼は考えを悟らせないようにも、何も考えていないようにも見えた。 「……どうして?」 ジェラルドに届かないようにか細く発せられ声は彼ではなく、背後で控えるアルストに向けた言葉だ。アルストもアルストで何を考えているのかわからない声色で「ジェラルド様がぜひ一緒にと誘われたんですよ」と口にした。嘘は吐いていない。 「絶対嘘……毒とか盛られてる……」 「こら、ほうれん草を避けない。入ってませんし、入ってても効かないでしょう」 「効かなくても嫌だろ毒入りスープ」 言いながら、白いスープに口をつける。厚切りベーコンの濃い旨味が溶け込んだ牛乳のマイルドな口当たり。味付けはコンソメをベースにしているらしく、見た目の割に和風っぽい。どことなく舌に合っている。しれっとほうれん草を避けたのがバレて見咎められたので、仕方なく玉ねぎと一緒に口内へ掻き込んだ。 「あれ、そういえば何でこっちで食べるものって俺に馴染みのあるものばかりなの? 異世界っぽいもの食べたことないや」 「神子様、俺たちも同じ人間ですから」 「じゃあドラゴン肉とかマンドラゴラとか食べないの?」 「いえそれは食べますけど……詳しいことはほら、俺よりも説明に適した方がいますよ」 アルストが視線だけで促す。つられたゆずるが顔をそちらに向けると、二人分の視線を受けむっすりと唇を結んだジェラルドが少しの沈黙のあと口を開いた。 「……神子がこの世界特有の物を食べると発狂すると伝承がある」 「発狂!?」 「煩い。狂って死なれては困るからな、そのために神子の飼育記録に沿った食事が用意されている」 「し、飼育記録……」 「神子様、ジェラルド様の言い方は悪いですが、概ねその通りです」 げんなりとした声色で復唱するゆずるをアルストがフォローする。義務は果たしたと言わんばかりに、ジェラルドの視線は早々とゆずるから外れた。既に手元の皿に向けられている。 今朝は縁がこんがりと焼けた綺麗な丸い生地の中央に三足烏(さんそくう)の卵が落とし込まれたイングリッシュマフィンだ。ナイフとフォークで切り分けると半生の青身(・・)がとろりと白い皿に広がった。 「神子がマンドラゴラの叫びを聞くと正気を失い、食べると色狂いになるのはこの世界では有名ですから」 「? 色狂いってなに?」 「ジェラルド様に聞いてみましょうか」 「ごほっ」 「ちなみにその代の神子は国王との子供を二桁残したそうですから、俺としては食べるのも吝かではないかと……冗談ですよ、睨まんでください」 前方を向いたアルストの言葉につられて再び前を向くと、涙目で咽せるジェラルドがいた。涙を浮かべているが気迫の凄まじい形相で睨んでいる。 色狂いの意味も子供とマンドラゴラに何の関係があるのかもよくわからなかったが、ただ怖いばかりと思っていた彼が思ったより人間くさいんだなと気づいただけで収穫だった。 それからは特にこれといった会話はない。だが小さな口をゆったりと動かして食事をするゆずるを見ながら、ジェラルドは食後の珈琲に口をつけていた。 昨日は忙しいと言い放ったわりに随分と食事に時間を費やすのだなと思ったが、しばらくしてゆずるの皿が空になったのを確認して席を立つ。 自分の食事のあと、相手が食べ終わるのを待っていたのだとそのとき気がついた。 「ね、悪いばかりの人ではないでしょう?」 にこやかに笑うアルストの言葉を曖昧な返事で受け流し、来た道と同じく自室までの道を歩く。同じ建物の中だというのに、ゆずるのために用意された豪奢な檻とジェラルドが生活する居室までの距離は正しく『道』と呼ぶに相応しい距離があった。 ところで、ゆずるの最近の趣味は辞書を引くことだ。まだこの世界の文字を書くのは難しいが、拙いながらに読むことはできるようになった。 色狂い。部屋に戻ると机の上に出しっぱなしにしていた辞書を引き、いの一番に叫ぶ。 「セクハラじゃん!」 「大丈夫、まさかジェラルド様も神子様からセクハラされたとは認識しませんよ」 そうだろうか。そうかもしれない。だが、二人の間には“ゆくゆくは夫婦”という共通認識がある。妻から夫にそういう話を振るということは、無知では済まされないものがあるはずだ。 仮にその認識に相違があったところで、二人の関係が夫と妻から大人と子供に変わるだけだ。それもそれで気まずい。少なくともゆずるはそう認識している。 自分とほとんど歳の変わらない義弟と手を繋いで「初めまして」と言った年若い義父を前にして「ママいつおとうとをつくったの?」と驚愕の声を上げてしまった幼き日の過去を持つ自分が言うのだから間違いない。表情の強張った大人たちを思い出すと、今も悪いことをしたと思ってる。言い訳だけれど、血の繋がりのない家族なんて考えたことがなかったんだ。 「おい」 思い耽けるゆずるの耳に威圧的な声が聞こえたのと扉が開いたのはほとんど同時のことだった。 思わず立ち上がって扉に目を向けると、不機嫌な顔をしたジェラルドが立っている。流石にアルストも予期していなかったのか、帯刀に伸びていた利き手を戻して「どうしましたか?」と口にした。 「しばらく仕事ができなくなった。死に損ないの命令となれば俺も背けん」 「……現国王の王名にて禁止をされたと?」 「厳密には別の仕事を言い渡された。俺の仕事は未来の妻と親睦を深めることだと。ふざけやがって」 「それは……陛下もなかなかよいことをされましたね」 「どこがだ」 話の見えないゆずるを置いて二人の会話が進む。緊張と困惑で全身を強張らせたゆずるに気づくと、アルストは人好きする笑顔を向けた。 「しばらくジェラルド様と一緒にいられるそうですよ。よかったですね」 「え……え?」 それは本当に朗報だろうか。難しい顔をしたジェラルドにか、表情筋が固まったままのゆずるにか、この場で唯一笑っているアルストにか。 考えてもわからなかったから、取り敢えず「うん」と答えておいた。昔から、素直に聞き分けの良い返事をするところがゆずるの大人に褒められる長所だ。
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