本編

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『信じられるか? 目が覚めたら異世界に飛んでた』 罫線の無い真白の紙にインクを滑らせたその言葉は日本語で書かれている。背後で目付役の青年が興味深そうに覗き込んでいるのがわかったが、どうせ読めやしないだろうと構うことなくゆずるはペンを走らせた。一応手紙という名目で書いているそれは愚痴であり、遺書だ。宛先は義弟。だが一生彼に読まれることはないだろう。 『俺はもうそっちに帰れないらしいから、俺の代わりに目一杯義父さんと母さんに甘えて欲しいし長生きしてほしい』 忙しなく文字を綴りながら同じ言葉を心のうちで呟く。頭の中では義弟の「は?」という声と冷たい瞳が思い出された。 『元気にしてるかな。思春期なのか一方的だが俺に当たりが強くて、最後にした会話が「もうお前のこと兄として見てねえよ!」だったのが悲しい。お兄ちゃん寂しい』 勢い余ってぐすぐすと鼻を鳴らしながらも手を止めないので、背後から覗き込んでいた青年は慌てたように声を上げた。 「神子様、お茶! お茶にしましょう!」 「お茶ならさっき飲んだよぉ……」 つい数十分前も同じことが起き、青年に休憩を促され筆を置いたのだ。気遣いをしようという誠意は感じられるがその気遣いが一辺倒な男の名前はアルスト。ゆずるがこの世界に喚ばれたその日に就けられた監視役だった。 「泣かんでくださいよ、殿下にバレたら俺が絞られる」 「あのおっさんが俺のことで怒るわけないだろ……」 「うわっ、しーっ! それ言ったら駄目なやつです! 聞かれてないだろうな……」 慌ててゆずるの口を塞ぎ周囲に目を配る。神子のために造られた豪奢な監禁部屋には二人の他に誰もおらず、また人目を気にする必要もない。魔術を使って二人を監視している可能性もあるのだが、アルストは魔力を持たない騎士だ。見渡したところでそこに魔術師の“目”があるかわからなかった。 「大丈夫だよ、なんかわからないけど俺そういうの弾くらしいし」 「それ、弾いてるの自体神子様は自覚ないんでしょ? 相手が嘘吐いてるのかもしれないじゃないですか」 「役立たずの魔術師ってレッテル貼られておっさんに斬り殺されるのわかってて俺を庇うやつ居ないよ」 「また言った! ジェラルド様! はい復唱!」 「俺今度はあの金髪王子のことだって言ってねーもん。命令するのはあれでも実際切るのは騎士の人だろ」 涙が引っ込んだから再び机に向き合う。アルストとの会話はこの監禁生活の中で唯一の娯楽と言えるほどの楽しみだが、ジェラルドの話題を出されるのが嫌だった。 「俺も役立たずなんだろ、いっそ俺のことも捨ててくんないかな。斬り殺されるのは嫌だから路上にポイッと」 「滅多なこと言うもんじゃないですよ。もう、口を開けばこれなんだから俺も尊き人だって忘れそうになるなぁ……」 「尊き人、ね」 ゆずるは無表情に呟いた。そんなに大層な人ならもっとこちらの要望に応えてほしいものだ。なにせ、あれから一歩もこの部屋の外に出してもらえない。 「俺凄い人なんだろ? ちょっとくらい外出て良くない?」 「ええ、まあ……害意の認識すらできてないはずなのに呪いを弾いて呪術師が勝手に倒れたり、無風の中向かいの建物から放たれた矢が強風に煽られて逸れる程度には神のご加護がありますもんね」 「つまりは何が起きても死なない、と」 「何度も殺されかけているほうに目を向けましょうね」 それも部屋の中から出ていないにも関わらずだ。しかも、呪術は言わずもがな矢のほうもしっかりと報復が成されている。犯人はその場で強風に煽られ高所から墜落したのだ。 神の加護は呪いにも似たもので、本人の意思とは関係なく働く。豪奢な座敷牢はゆずるを守る為のものであり、彼を狙う命知らずたちを守る為のものだ。 「はあ、まったく……ジェラルド様があんな大声で風聴しなければ防げた事故もあったのに」 「その事故って俺のご飯に園芸薬剤が混入されてて嫌がらせに食べた執事見習いが苦しんで死んだこと? その刑罰で厨房の計画を知ってた人たちが無関係な家族も含めて皆路頭に迷う羽目になってること?」 「それも含めて全部です。どうしてこんなに神子に牙を剥く命知らずが多いんだ!」 「俺が魔力ゼロだからじゃない?」 なにせ神子はその強大な魔力で以って天候を操り、国を鎮める。愛と戦い、豊穣の神であり、また海神、雷神であるらしいのだ。 『この国の成り立ちは異世界より遣わされた神子の手を借りた勇者が魔王を討ったことが始まりとされている。 現在まで名を連ねる王族は遡れば勇者と神子の子孫であり、血を薄めすぎないため100年に一度、異世界の血統を混ぜなければならない。』 というのが、ゆずるがこちらで目を覚ましたその日に渡された本に書いてあった。もっと難しく堅苦しい文章だったが、読めないからとアルストに要約してもらった内容はそんなものだ。 それから神子の役割や扱い、その他にも様々なことが説明されたが、三つ目に聞かされた「元の世界には帰れない」という事実の大きさを前にすると何も耳に入って来なかった。泣き喚き暴れ回り癇癪を起こしては眠るのを繰り返し、段々と精神を持ち直したのはここ数日の話だ。正確な日数を数えていないが、アルストの言葉を信じるとゆずるがこちらに来てから2週間ほど経ったらしい。 アルストはゆずるが人の言葉を聞き入れる余裕が出てきたのを見て、「まずは気持ちを整理してみましょう」と言って紙とペンを渡してきた。それがつい今し方の出来事だ。 「……俺、どうしたらいいのかな」 届け先のない手紙はとっくに書く手が止まっている。 叢雲ゆずるという15歳の少年は、決して天涯孤独な身の上でも愛のない家庭に育ったわけでもなかった。平凡な家に生まれて10年ほど前に父を亡くしたが、その翌年には養父と義弟が家族になった。既に10年近く暮らす血の繋がらない彼らは、血の繋がった実父よりも多くの時間を過ごした大切な家族だ。どちらもゆずるにとって本物の父親だが、父親と言われて先に思い浮かぶのは養父の顔だった。 今は反抗期の義弟だが、それを理由に嫌いになるわけがない。詰まるところ、ゆずるは思春期の割に素直で家族を大切に思っている。 逃げたい現実があるわけでもなく、事故や事件に巻き込まれて命を落としたわけでもない。ただ喚ばれた。それだけでこの世界はゆずるから全てを奪い去ったのだった。 再びじわりと黒い瞳に涙の膜を張り始めた少年の前に、紅茶とクッキーが置かれる。もうお腹はたぷたぷだったが、それしかできないアルストの心遣いを無碍にできず口をつけた。ベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。 「ジェラルド様は、神子様に何と仰ったか覚えていますか?」 「……俺の夫、だろ」 「ええ、原初の神子と勇者を祖先に持つ王族と異世界から使者である神子様の血は交わる必要があるのです」 「あのおっさんペドなの?」 「ぶっっっ」 アルストが紅茶を噴き出した。 夫を失ってからというもの塞ぎ込んでいた母は、ゆずるが5歳のときに新しい夫を連れてきた。学生時代世話になった人の息子という縁で、その当時養父は二十歳。ゆずるにとって15歳という年齢差は、夫婦よりも親子を連想する歳の差なのだ。 ところで、この国の次期国王である第一王子、ジェラルド・ランスは次の誕生日で31歳となる。 「あの、神子様、確かにジェラルド様は落ち着き払った雰囲気や王族特有の堂々とした佇まいで年齢を悟らせませんが、今年で31歳の壮年で……」 「俺のお義父さん、今年で31歳なんだよね」 「お若い……ですね……」 もうアルストは何も言わなかった。静かに紅茶に口をつける音だけが聞こえる。 「だいたいさ、男と男だよ? 結婚の理由が血を残すためなら必要ないんじゃないの? 俺のことも『伝承通りの黒髪黒目の歳若い男』って言ってたじゃん」 「よく覚えておいでですね。……原初の勇者は女性なんですよ。神子が男性で、のちに夫婦となった」 「え!? じゃあ俺と結ばれるのはお姫様じゃない!? あのおっさん何なんだ!?」 思わず叫ぶと「ジェラルド様!」と鋭く注意する声が飛ぶ。ごほん、と一つ咳払いをして、アルストが話を進めた。 「それが神子と王族の不思議なところでですね、男同士でも子供は生まれるんです。神子が女になったという説もあれば、魔術で子供を作ったとされる説もある。キャベツ畑で生まれた説もありますから」 「お、俺のときもキャベツ畑でお願い……」 「ちなみに三世代前の元国王のお生まれは馬小屋であるとか」 「そっちのがよっぽど神子っぽいじゃん」 この世界の唯一の神は原初の神子であり、それより以前に遡ると魔族が人間世界を揺るがす暗黒の時代へと突入する。キリストの存在しない世界にいるアルストは首を傾げた。 「ともかく、魔力がなくても貴方は神の寵愛を一身に受けた神子だ。大丈夫、魔術が使えなくとも王の国を治める助力となることは可能です。そもそもジェラルド様自身が歴代の王族の中でも特に魔力が強く、魔術の造詣が深い方ですから」 「前提の荷が重すぎる……」 どう足掻いても神子の行く末は決まっている。抗っても無駄なのだと、15歳の少年に告げるには酷な事実だった。
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