本編

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──どうやら眠っていたらしい。いや、気絶していたのかもしれない。 少年は目を覚ますと、まず全身の痛みに呻いた。全身が床に打ちつけられたように痛い。しかも床は固く、もしかしたら地面にそのまま寝転んでいるのかもしれないとさえ感じる。 今が平日か休日か朝か夜か家の中か学校かすらわからないまま瞼を開くと、とんでもなく綺麗な顔が目の前にあった。 「おい、本当に神子の召喚は成功したのか? こいつがそれだと?」 意識がまだぼんやりしている少年の耳に声が届く。やたらと良い声だ、と思った。まだそれを考えるほどに精神的な余裕があったのだ。 顔を上げた先にいる金髪の男は冷めた瞳で見下ろしていた。 「ジェラルド様、どうか呼び方を改めてくださいませ……神子と言えば、殿下であらせられる貴方様に匹敵する身分なのですよ」 「だがこいつは魔力がない。お前たちは魔力を感じ取れないからわからないだろうがな」 男の言葉に周囲がざわつくのがわかった。周囲を取り囲み、腰の剣に手を当てている甲冑の男が数人。その背後で老人が「そんな馬鹿な」と呆然として呟くのを聞いた。 「確かに魔法陣から人は出現しました。それも伝承通りの黒髪黒目の歳若い男です」 「ああ、異界から人は来た。だが、これは俺の望む神子ではない。魔術師。お前ならわかるだろう」 「失敗したな」と忌々しげに呟く。そのこちらを見据える眼光の鋭さに何も言えずにいると、青い顔をした老人の縋る声が響いた。 「そんな、お待ちくださいッ……ああ、ご慈悲を! もう一度機会を……ッ」 「くどい。お前は終いだ」 瞬間、劈く悲鳴が反響する。 「あ……え……?」 伝播する緊張感と血の臭い。痛いほどの静寂。カチン、と剣が鞘に収められる音がした。それが何を意味するのかわからないほど、少年は非現実やフィクションに理解のない性格ではなかった。 人だかりの奥になって見えないが、向こうではきっと── 「ッゔ、えぇえ゛ッ、お゛ッ、げほッ」 理解した瞬間、迫り上がる吐き気を抑えられなかった。衝動に従い込み上げる胃液を吐き出すと、昼に食べたパンまで出てきて更にえずく。最悪の思い出し方だが、付随して思い出すことがある。ついさっきまで真昼の校舎にいたはずだった。 はあはあと荒い息のまま口元を拭うと、着ていた制服の袖が汚れた。 ジェラルドと呼ばれた男は少年の様子に気づくと鬱鬱とした笑いを向けてきた。 「ふん、成り損ないの分際で慈悲深いことだ。どれ、虫の息だがまだ生きている。手でも握ってやれ」 「ひッ……」 襟首を掴まれ無理やり引き摺られる。連れて行かれた先では左肩から右腰にかけて大きく前面を切りつけられた老人が横たわっていた。淀んだ青い瞳が向けられる。 「おお、おお……そんなはずはない……貴方は……神子……」 「ひぃッ、う、うわ……ッ」 「慈悲……を……」 血塗れの手のひらが手首を握った。目の前で死にかけているはずなのに恐ろしいくらい力強い。何より、目を逸らせなかった。 握られた手を振り払うこともできずガタガタと歯を鳴らし全身を震わせていると、呆れたような声がした。 「祈ってやれ」 「え……?」 「何でもいい。お前の言葉でこの者への鎮魂を口にしろ」 「え、え? えっと、こ、この度は……」 「早くしろッ!」 「ご、ご冥福をお祈りします!」 瞬間。苦悶に塗れた老人の表情は消えた。何もかも悟ったようにも、何もわかっていないようにも見える。ただ目を見開き口を僅かに開けた無表情は心を何かに預けた証左だった。 少年の手を握ったまま、老人は静かに絶命する。 「……ふん、神子の祈りで傷が癒えるなど与太話だったな」 がちがちに固まって離せない手と絶命した手を剥がすように引き離すと、ジェラルドは皺だらけの手を捨てるように地面に放って、反対の手は離さなかった。そうして離さなかったほうの手を引っ張り上げる。無理やり立たされた少年は転びかけ、反射的にジェラルドの胸に手を置いた。 「お前、名前は」 「え? お、俺……」 「名前だ」 早くしろ、と握られた手がぎりぎりと締め付けられる。指先は血が集まって赤くなっていた。 「む、叢雲(むらくも)ゆずる……」 「俺はジェラルド。死に損ないの父上がくたばったあとこの国を継ぐ次の王だ。そして、お前の夫となる」 「……へ」 吐き捨てるような言葉を聞き返すより先に手は離された。同時にジェラルドに凭れ掛かっていた手も弾かれる。バランスを崩したゆずるは今度こそ尻餅を着いた。その間にジェラルドは颯爽と踵を返して歩き出す。 ゆずるを振り返ることなく、その後ろ姿はすぐ騎士たちに阻まれ見えなくなった。
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