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第三話『セイレーン』 3
「しかし解せないな」
「何がです?」
「あんたのことさ。……そいつが国に現れる頃合いは読めていたはずだ。それなのにあんた、何故俺たちに声をかけなかったんです。ルプコリスのコルナウスが、しかもその頭が。長いこと追っていた奴だというのに。あんたはそいつが、セイレーンを飼っているなんて重要なことを知らなかったのか?」
先に知っていれば逃がすこともなかっただろう。むしろ、すぐにことは済んだはずだ。ロウが低く、威嚇するように告げた。
何か、含むところでもあるのかと問うように。
アルグはぺたりと耳を倒し、吐き出すように答えた。
「……ええ、わからなかったんです。……情けないことに」
わかった時にはすでに遅かった。アルグはそう返した。
「数年前、監視役に付けていた部下からの連絡が途切れたんです。……突然連絡を絶つような者たちではなかった。コルナウスの中でもより忠義心の強い者を選んでいましたから」
おかしいと思って別の部下を向かわせたが、彼らもまた連絡を絶った。そう言って、アルグは指を噛んだ。
「……死んだにせよ寝返ったにせよ、我が王から借り受けた民の数をこれ以上減らすことはできなかった……。だから、できるだけ近付かずに遠くから動きだけ探れと命じるしか私にはできなかった。……何かあるとはわかっていたのに、それが何かわかった時には、あいつはオレたちの目の前から逃げていくところだったんだ……!」
知らせを受けてその場にアルグが駆けつけた時にはもう船の姿は無く、代わりにあったのは、兵たちの混乱する姿であった。
ある者は水辺から逃げようとし、ある者は霧の立ち込める方へと向かうため船を出そうとする。落ち着かせようとする者、腰を抜かして呆然と川を見ているもの。
アルグが比較的落ち着きを保っていた者たちに何があったのかと問うたところ、取り囲もうとする船から不思議な声が聞こえたという答えが返った。
女の声だった。それも複数。道を空けて頂戴と、蕩けるような声が耳に届いた。
邪魔をするならここで死ぬかと、脅してくる声もあった。
ざわつき戸惑う兵たちを笑うように、さらに別の囁きが聞こえてくる。
――ここにいるのはこの国の王様よ。貴方たちは、それに向かって牙を剥くの?
その場に居た兵の誰もが、目の前にいる男が王ではないことなど充分すぎるほどわかっていた。だが、声を聞いたとたん疑いがどこからともなく滲み出てきた。自分は王に向かって無礼を働いているのではと不安に駆られ、身体が思うように動かなくなったのだと。
「……それは、確かに歌い鳥の声で間違いなさそうだ」
ロウの呟きにアルグは頷く。奥歯を噛みしめる音が微かに聞こえた。
「私が港に到着した時、港はそんな状態でした。……貴方の言う通りです。もう少し早く、わかっていれば」
霧の中へ消えていく船の上には、船首に立つ男の他にも、黒い髪をなびかせた女が数名こちらを見つめて笑っていたという。
「混乱させたなら着岸するのも容易かっただろうに、そのまま逃げて行ったのは、あちら側にはセイレーンがいると印象付けるためか。戦力持ってる自覚があるなら、そのまま王都まで突っ込む道を取れそうなものを……、それをしなかったってことは、セイレーン含めてあっちには複数の兵を相手にできるほど戦術に長けている者がいないと考えて良いですかね……」
ロウが言う。
「おそらく。あの男には兵の持つような戦術知識はほとんどないはずですから。……ただ一つわかっているのは、我々は真っ向勝負すらできぬ卑怯者に宣戦布告されたということだ」
憎しみを含んだアルグの強い語気に、しん、と室内が静まり返った。
「アルグ殿……」
トキノの声にはっとしたアルグが顔を上げて、複雑な笑みを見せた。
「ああ、すみません、……取り乱してしまいましたね……」
驚いたという顔をしたセイとは逆に、ロウは真剣な顔で何かを考え始めていた。その様子に気づいたトキノが小さく、彼を呼ぶ。
「ロウ?」
「ん……」
「どうした」
「……アルグに、いくつか、確認したいんだが」
トキノの声に対し虚ろに返事をして、ロウはアルグへと視線を向けないまま問いかける。頭の中で何か思い浮かべているのか、ロウの視線はここではないどこかを見ているようだった。
「はい。……どうぞ」
意識を切り替えて、アルグはロウと向き合った。
「……船が逃げたっていうのは、いつの話です」
「五日ほど前です」
「ルプコリスからリーパルゥスまで、船で何日かかる」
「風の具合にもよりますが、あの大きさの船ならば、真っ直ぐこちらへ向かって丸二日といったところでしょう」
「……その間、ルプコリス側で船は発見されていないんだな?」
「はい」
「他の地域は」
「船の入れる大きな支流はすべて調査中ですので、今のところ同じく、とお答えします」
ルプコリスから近い地域ではすでにコルナウスの者を含め、ルプコリスの兵たちが監視を始めている。それでも見つからないために上流域へと範囲を広め始めているのだとアルグは答えた。
その言葉にロウの眉間に小さな皺が寄る。
「あんたの言葉をすべて嘘だとは思いたくないが……。協力を求めるなら、隠し事はしないでもらいたいですね」
まだ何かあるだろうと、ロウが言う。
「……」
意味深げな質問に、アルグは一瞬押し黙った。
少しだけ困ったような、しかしどこかに笑みを隠す表情で。ひとつため息をつくとゆらりと長い尾を揺らして答える。
「下流域の監視はあえて目立つように行い、逃走経路を狭めています。さらにコルナウスには奴をノウォー川上流、リーパルゥスの周辺へ追い込んで来るよう命じました。この渓谷付近で。貴方の有利になる地で捕らえられるように。――それによってあいつが動かされるかどうかは、まだわかりませんが」
「……なるほど。あんたはそいつを取り逃がした時点からすでに、俺たちの事を巻き込むつもりでいたということか」
「……」
耳を伏せたアルグに対し、顔を上げたロウはトキノへと声をかけた。
「トキノ。ここに地図はあるか。川がしっかり描かれてるやつがいい。……もっと言えばルプコリスからリーパルゥスまでの広域なものがあると理想なんだが」
「……んー。確か、あるはずだ。すぐに持って来る」
「頼む」
「少し待っていておくれ」
小さな唇が迷うことなく答え、ふありと舞った夕焼け色の髪が、急いで部屋を出て行った。
閉められた扉を確認して、黄昏時の空色は、先を読もうとする将のそれへと変わる。
「セイ。……お前地図上でどの程度風が読める」
「地図の正確さと、季節と時間にもよるが……、六割程度、というところだな。……渓谷の周辺なら実際飛んだ記憶にあるからもう少し上がると思う」
「よし。じゃあお前は風を読んでくれ。船が進む下層を中心に、やれるか」
「ああ」
ロウとセイは口早にやり取りをし始めた。二人を見やると、アルグは一瞬言葉に詰まりながらも、では、と声を発する。
「……ご助力頂けるのか」
「俺は、こいつがやると言うならそれに従うだけだ」
まず、セイが答えた。
「我らの女王の顔を立てるためだ、多少の協力はするさ。俺たちの砦めがけて追い込んで来るんじゃ、放っておいたらこの国にも大祭にも影響が出かねない話だからな。こちらで動けるところは動いてみよう。……ただし、安くはねえぞ、覚えとけ」
貸しにしておいてやるとロウが答えると、アルグは苦笑して、高くつきそうだなと短くこぼした。
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