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第五話『古傷』 2
「ロウ。こっちの準備はできたぞ。いつでもいける」
部屋を訪ねたのはセイだった。
声をかけてセイが室内に入ると、いくつもの光石の明かりの下、足の低い机に向かって、顔を上げないままロウはひらりと手を振り、わかったと一言い返した。
「まだそれ見てるのか。何か気にかかってることがあるなら説明するぞ。……伝わるかどうかわからないけど」
ロウの視線の先には幾筋もの線が描かれた地図が広げられていた。書きこまれた線は谷を渡る風の道。この数日の間にセイが川沿いを飛び回り風を読み、調べ上げ、書きこんでいったものだ。
「説明はいいんだ。……もうすこし、広い範囲で地形と風が読めたらと、思ってな」
「……ああ」
ロウの指先が地図上で滑る。地図上には幾筋もの線が書き込まれた箇所がある一方で、大まかな線しか書きこまれていない部分がある。国境から向こう、隣国、ヴァリスコプの土地である。
他国の王の縄張りとなる場所から先は、移動のため飛び越えるだけならまだしも、調査のために何度も飛ぶとなればその国の許可が無ければできることではない。彼の国との話ができぬ状態の今は、地図を見て、地形から推測して読むことしかできなかった。
それでも谷を飛ぶには十分な情報だ。しかし、ロウはまだ納得がいかないという顔をする。
「今夜までに一度、あの国の王と話ができたら良かったんだが。……これじゃあ、俺たちには深追いできそうもない」
ロウは言うと、地図を畳んで立ち上がった。
「何で、王でないとダメなんだ?」
身支度を調えるといって書斎を出たロウの背に、セイが問いかける。
「兵とか、あのあたりを警備してるやつらと話ができたら、そこから通してもらえばいい話じゃないか……。国土に対してどうこうするわけでもあるまいし」
問いに、ふと、ロウが苦笑して見せた。
「お前たちの群れが来た時に、……そうやって話を通したら揉めたんだよ。俺はその頃将の立場じゃなかったし、良くも悪くも俺が動かせる人手はほとんどいなかった。何とか話が通ったから俺は動いたんだが、お前と戦ったあの日はまだ上層部に上手く話が通ってなかったらしくてな。『領空に触れるというのに国王の許しが無いうちから動くなどとは、礼儀も常識も知らぬのか』とかなんだとかネチネチとな。……トキノが上手いこと収めてくれたが、最悪、国境跨いで戦闘したって罪ふっかけられて、俺も消されていたかもしれん」
「面倒くさいな……」
「なにがどう転ぶかわからないから、気を張る気持ちもわからんでもないけどな」
ロウはそう言うと、ため息を秘かに吐いた。
結果として上手く纏まったことではあったものの、あの谷間で戦闘を繰り広げたことで後々釘を刺されたことがある。今度はせめて、軽く小言を言われる程度にしておきたいのだとロウは考えているのだ。
「まあ、あの国は、お前たちが来るちょっと前に代替わりして、内部がまだ落ち着いてなかった頃だったっていうのも原因だったと思う」
「なら、今は?」
「軍縮するって話がある。実際、そういう動きで進んでるそうだ。……だから、いつそこからいなくなるかわからない相手に話を通すより、確実に動かない相手と話がしたかったんだよ。たとえ、話が上手く通るかどうかわからなくても……」
ロウは言って、薄布を首に巻き付ける。喉元にいくつか光る青緑の鱗を隠すそれは、ロウが部屋から外へと出る際にはいつも付けているものであった。
するりとその薄布が首を覆った時だった。
部屋の外から、ロウを呼ぶ声がした。
「竜将! まだ、おいでですか」
「いるぞ、何だ」
焦りを含んだ声に、ロウとセイが顔を上げた。
「よ、……かった。まにあ、った」
部屋の扉を開けると、そこには息を切らせて俯く、乳白色に若草を混ぜた毛色の羚羊の姿があった。
「キナリ? どうした。船着き場で問題でもあったか」
「それがっ」
一度深く息を吐き、キナリは人型の姿へと形を変える。視線に迷いを溶かしながら、ロウを見上げて、言った。
「狼属の、男を、捕らえました。黒髪の女を、つれています……っ」
「なに……?」
「ただ……」
続いた言葉に、ロウの表情が警戒から驚きの表情へと変わって行った。
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