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序-2
「無事すべての船が離れたようです」
「久々でしたね。こんな濃霧になるのは」
奇岩の見張り櫓の中で一番大きく広い櫓の上。次々と停留所を離れて行く船を見送りながら、砦に詰める兵士と思わしき者たちが次々と集まり、傍らにいた男へと声をかけた。
集まる兵の中心にいるのは、先ほど指示を出していた男である。
「でも、……まさか風読み係の代理に、貴方様が来るなんて。びっくりしました」
この春兵役に就いたばかりと思わしき若者が、おそるおそるといった風に声をかける。
柔らかそうな毛に覆われた長い両耳が、わずかにぺたりと横を向いていた。
「すまんな。もう少し優秀なのを来させようと思ったんだが、あいにく別の用事を言いつけてしまってな。手の空いてるのが俺しかいなかったんだ」
「いえ! そういう話ではっ」
慌てて首を振る青年に、男は笑って見せた。
大柄というほどではないものの、鍛えられた体つきをした男だ。長身で、着込んだ衣服の質からして、彼らの上にある者と思われる。
黄昏時の空色を映したような深い藍色の眼。朝霧に似た青みを帯びた銀の髪。額には二つの短い角。緩やかに首元を覆う薄い布の下には、ちらりと青緑に輝く鱗が見えた。
様々な種の獣人たちの住まうこの世界においても、彼の姿は特異と言える。昔話に語られる、天地創造の主、大陸を統一に導いた種族、尊い獣の姿に近いからだ。
その姿から、彼は竜の将軍、竜将、または、ドラクネルと呼ばれている。
本名はロウと言うのだが、名前で呼ぶのは限られた者たちだけだ。
「竜将も、水上大祭の準備でお忙しいはずでしょう」
「いや。本当にに忙しいのは動き回ってる連中さ。俺は大して何もできんから、せいぜいものを頼むくらいだよ。それに、そいつらのおかげで俺も少しずつ楽になってるしな」
「えっと。しかしそれは、指示や命令を出している、と言うのでは……」
「そんな大層なことじゃない。本来必要なことはみんな、動き回るやつらが知ってるもんさ、俺はそいつらが動きやすいようにしてるだけで」
この男が将の位を戴いてから、年追うごとに国の中で少しずつものの動きが変わりつつあった。特に国中が騒ぎ出す大祭の頃になると、一年かけて積み上げた結果がはっきりと見えるようになる。
蛇行し濁って流れる暴れ川が、治水によって穏やかに変わっていくように。
狭くて足場の悪い悪路が、整備され、行きかう者の増える街道へと変わるように。
少しずつ動き出したものを見て、ロウは、今年は去年よりもっと良いかたちで進められるだろう。そんなふうに、満足気に笑う。
「俺は、……動き回るやつらの仕事が滞りなく進んで、文句なしの満足いく形でまとまっていくのを見てるのが楽しいんだ。大祭の頃は特にそれが見えてくる。だから俺は、俺ができることで手伝って、支えているだけ。あいつらが最終的に楽しければ、それでいい」
それに、と付け加えロウは少しだけ遠い眼をした。
「多少立場が良いだけの俺が、必要以上に手を出したり口を挟んだりしたら、後々皆に迷惑が掛かりかねん。それは好ましくはないだろう?」
「はぁ……。将軍っていうのは、そんな物の見方をするんですね。すごいや……」
堅苦しい呼び名を戴きながらも、この男は気さくであった。若者の言葉にも気兼ねなく答え、何とも人好きのする笑みを見せた。
そんな姿に苦笑して、ふっと青年が力を抜いたときであった。
「竜将、あれを!」
集まっていた兵の中から、彼を呼ぶ声がした。監視所の兵の中でも古参と思わしき男が、上流部を指さしている。
「なにか来る!」
わっと若手の兵たちが声を上げて騒ぎ出した。しかし古参の者たちは落ち着いて、ロウへと視線を向けたままであった。
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