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第五話『古傷』 4
「気にしないでくれ、突然騒がせてしまったのは私のほうだ。今日中に貴殿と話をしておきたかったんだが、……なかなか船が進まずすっかり遅くなってしまった。……急ぐから陸路を走るというのを、彼女らが許してくれなくてね」
アウルクスはそう言って、かぶっていた布を脱いだ。慌てたように近寄る黒髪の女が布を受け取る。
「……彼女は、コルナウスの?」
「そう。アルグとは別に、私についてくれている狼たちの一人だ」
言って、アウルクスは姿勢を正してロウの前に立った。
鈍く光る長い金の毛並み。ぴんと立つ狼属の耳。背後には柔らかそうにふんわりと膨らんだ長い尾が揺れる。優し気な雰囲気でロウを見下ろすその眼は、赤い月の光の下で、ゆるりと複雑な色味を放つ菫色に光っていた。
「この後の話はアルグから聞いている。貴殿の出立までに間に合って良かったけれど、――急ぐかい?」
「……少し」
ためらいながらもロウが答えると、ひそりと後ろから声がした。
「ロウ。なら、俺が先に飛ぶ。……風の具合からして、まだ余裕があるから大丈夫だと思う。お前は、後から来てくれ」
「そうか……なら、頼む」
「うん」
頷いて、セイがその場から飛び立つ。視線を向けて見送ったアウルクスとロウの間に、張が走る。何事だろうと身構えたロウの上に、アウルクスの声が落ちた。
「あの子の時だったね。ヴァリスコプが、貴殿とトキノに対して文句をつけてきたのは」
ちらりと空を眺めていた菫色の眼の中に、青と緑がきらめいて溶ける。
「……今回も、貴殿はそれを恐れている。だから密偵を送ってまであの国の王と話を付けたかった、……違うかな」
「そこまで、御存じで」
アウルクスは、見た目はそこそこに若く見える長身の男だが、即位から約二十年、大河沿いで最大の国土と民の数を有する王だ。
その場で立っているだけだと言うのに、身に纏う気配が位の違いを感じさせる。これが王気というものだろうか。
「それも、上手く行っていないと見えるね」
「は」
低く告げられる言葉は、ロウの肩にずしりと重たいものを積み上げていくようであった。
緊張を解けないまま、ロウは短く答え、身体を固くした。この王は、ヴァリスコプへ出入りしていたという話が入っている。リーパルゥスとは友好関係にある相手だが、ロウによるヴァリスコプへの接触で、関係を悪化させるようなことでも起きてしまったのだろうか。
不安を感じながら、何を告げられるのかと息を呑んで待っていると、アウルクスは落ち着いた声でこう告げて来た。
「どうだろう。私がヴァリスコプと話をつける代わりに、貴殿にひとつお願いがあるんだが、聞いてもらえるだろうか」
「は……?」
「ああ、トキノやこの国には、何も迷惑がかかることじゃあないから、安心してくれ」
何を、と言いながら顔を上げたロウに、アウルクスは困ったような眼を見せた。
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