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第六話『霧の夜』 1
先に飛び立ったセイの頭上、空に煌々と、満ちていこうとする赤い月が輝いていた。
落ちた影を薄紅色に淡く染め、長く伸びた夕暮れを引きずったかのような夜である。
下流からふんわりと温かい風がやってきた。月の運ぶ海の気配がより強くなり、微かに磯の香りが混ざる風の匂いは、足元から聞こえる川面の水音を浜辺に打ち寄せる波音のように感じさせる。
対して上流からは冷えた山風が降りてくる。土の匂いと草の匂いを含ませた、雨を呼びそうな風であった。
「風の様子はどうだ、タキオ」
奇岩の柱を蜘蛛の巣のように結んで広がったつり橋の通路を渡り、風読み櫓へと上がって行ったセイが、先にそこで空を睨んでいた男へ声をかけた。
熊のような体躯に、縞のある丸い耳。セイの声に振り向くと、タキオと呼ばれた男は明るい笑顔で彼を迎えた。
「ああ、セイ、きみか。ご苦労さん」
大型猫属と何かの種族がいくつか混ざっているというその男は、空を飛ぶ種族ではないものの優れた風読みの眼を持っていて、妻であるノーラと共にこの砦の要としてロウの信頼を得ている男だ。
「今夜も良い夜だが……この淡い風はよろしくないな。もう少し強く吹いてほしいものだが」
「ああ、これだと確実に濃い霧が出るな」
「しかし風は荒れることはなさそうだから、きみはまだ休んでいるといいよ。警戒っていっても、霧が出るのはまだ先の時間だろうし、船の監視は別の櫓で見ているからね」
タキオがそういうと、セイは首を振った。
「俺は昼間に休んでるから大丈夫。今日はたぶん……、コルナウスの情報と重ねて、例のやつらがこっちまで来るんじゃないかってロウは睨んでる。あいつももうすぐ用事を片付けてこっちへ来るだろうから、それまで俺が見張りに立ってるよ。……それより、そっちこそ休んできてくれ。大祭の準備でここと王都を行ったり来たりなんだろ?」
セイが言うと、実際疲れが微かにあったのだろう、タキオは苦笑して首の後ろを軽く掻いた。
「そうかい? じゃあ、お言葉に甘えるか。竜将が来たら起こしてくれないかい、渡したいものがあるんだ」
「ああわかった。ゆっくり休んでくれ」
「ありがとう。気を付けるんだよ」
「うん」
タキオが櫓から降りていくと、周囲はしんと静まり返った。その静寂に紛れて、僅かに聞こえる谷底からの水音と共に、小さくささやく声が聞こえて来た。
別の櫓で見張りをしている者たちの会話する声だろう。
「なぁ、……例の、あれってのはまだ見つからないのか」
「さあ……」
聞き耳を立てたかったわけではないが、セイの耳がそちらに向いてしまう。
「ここでもし見逃してたらどうなるんだ」
「街の方でも監視はしてるらしいから、そっちで捕まるんじゃないか?」
「そもそも、ほんとにこっちへ来てるのかねぇ、そいつ」
「いなければいないで、いいじゃねえか。船を監視してるのは前からずっと変わらねえんだからよ。……気になるなら、今晩、竜将が来たとき話を聞いてみりゃいいさ」
「そうだな」
ひそひそと聞こえてきた話の内容は、彼らがしばらく前に前耳にしたばかりの事である。
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