第六話『霧の夜』 6

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第六話『霧の夜』 6

 谷底に溜まる霧の底。砦へと向かった女の真下から声がした。  濃くなりつつある霧を割いて、青みを帯びた銀色の翼が谷底から飛び出してきた。深く色を強くした黄昏時の藍色が、獲物の姿を捕らえて光る。  獣は砦へと向かう黒い翼の喉元めがけて牙を剥いた。威嚇のためだ。かわせる余裕は持たせていた。黒い翼の女は、けれどその余裕をやっとのことで掴んで避けた。 「ッ……!」  間をあけず、今度は空を踏む鋭い爪が伸び、黒い翼の先をかすめる。それもぎりぎりで動きをかわし、距離を取るため、すいと動いた。銀の獣はその距離を許して間を置いた。  黒い翼は数度羽ばたくと、上空で位置をとどめながらまた一声砦へと向かって声を発する。 「我らに従え! そこにいる群れを、あたしに寄こせ!」  ギャア、ギャアと、甲高い音に混ざるセイレーンの強制する声。  ロウは砦を背にする位置で、奇岩のひとつに四足を置いて女と向き合った。 「ここにあるのはセイレーンの群れじゃないぞ、奪ってどうするつもりだ」  よく通る声に、女の耳が動いた。唸り声を上げ、牙をむき出しにした獣が吠える。 「嘘だ! ここに群れがあると聞いたんだ! ひとりいたのなら、ほかにもいるはずだろ、隠すな! 素直に従え!」  わ、と谷中に響いたその声は、しかし砦の者たちには届かない。耳を塞げ、声を聞くなという、セイの発した声がいまだに彼らの中に守りとしてあるからだ。 「いいから、従え!」  女はそれに気づいているのか、打ち消そうとするようにさらに強く何度も吠えた。 「聞け! 従え! 隠し続けて抗うなら皆殺す!」  にらみつけ、荒い気持ちのまま女は叫んだ。目の前に現れた銀色の獣に対しても同じ声をぶつけて、邪魔をするなと威嚇をして見せる。  まるで子供の癇癪だ。思い通りにいかないことでさらに怒りを含ませて叫ぶ。  声の使い方をまともに習得できぬまま成獣したのだとロウは察して、複雑な感情を抱いたが、今はどうすることもできない。攻撃するならば相手は敵。そう切り替えて、ロウは上空へと視線を向けた。 「この砦はお前には従わない。お前の仲間も落ちた。わかるか、お前に勝ち目はないぞ」  ロウは声の力を含めぬまま女に伝えた。 「退け、諦めろ。これ以上近づくなら、お前も無事では済まさない」 「お前、何だ! 邪魔するならお前も殺す!」  背後から連れ立っていた女の気配が消えたせいだろうか、女は一層気を荒らげ、見境なく声を上げた。耳に届く音は獣の咆哮とほぼ同じ、その中に含まれた感情が聞く者の頭の中で言葉に変わっているに過ぎない。  荒削りで攻撃的、だからこそ強く向かってくる。ロウは声を真正面から受け止めてなお、振り払ってみせた。 「くそ、さっさとそこを退け! 隠してるセイレーンの群れを出せ! あの雄が作った群れがあるんだろ! ……出さないなら、まず先にお前を殺してやる。死ね! 谷底へ落ちてしまえ!」  ひときわ強く女が吠えた。びりびりと肌と耳とを震わせる声に、ロウも僅かに眉間をゆがめる。 「酷い声だな……。おまけにこっちの声も届かないときた……。これは、あいつの群れの女たちより、ずっと酷い」  上空で留まっている女が、焦りに駆られて正面からロウへと向かって降りて来た。爪と牙を剥きだしにして、殺意を乗せた奇声を上げる。 「あんなのに届くよう声を張るとなると、加減がしづらいが、……しかたない」  ロウは意識を内側へと向ける。肺に空気を吸い込んで、前を向いた。  ギャアという獣の声を打ち消すように、ロウが声を張り上げる。今度は強く、力を込めて。 「退くのは貴様たちの方だ、疾く失せろ!」  声に、圧縮した感情を込める。  縄張りを冒したことに対する怒り。反撃を覚悟しろという強い攻撃心と、殺意。  痛み、恐怖、苦しみ。想像できるかと問いかける。喉の奥に、自分の血の味が感じ取れるか、息のあるうちに肉を割かれて骨を砕かれる音が聞こえるか。  ただでは済まさぬと言っただろう。ここに来たらお前の想像を超えるものを与えるぞ。退くならばあえて追うまい。だが、続けるのなら、全て覚悟して向かって来い。  この爪がこの牙が、全力で貴様に向かって行くぞ。  その恐怖を想像せよ――!  様々な意味と感情を幾重にも重ね、ロウの放てる最大級の警告を含んだそれは、感情多重音声とも言われる最大出力の声。『幻竜の咆哮(リューゴ)』  放たれた声は女の頭を射貫くように、真っ直ぐ飛んでぶつかり、爆ぜた。標的を定めた彼らの声は、銛のように突き刺さり、より強く相手に影響を及ぼす。 「聞こえないか、失せろと言っている!」  今度は谷全体に響くようにロウが声を張り上げた。周囲に立ち込めていた、女の声が残した暗い気配が一気に晴れていく。  瞬間、形勢が完全に塗り替えられた。女の中で闘争心が恐怖へと置き換わったのだ。 「―― ッ!」  まともに声の使い方も知らぬまま声を発していた女だ。ロウの声は彼が思っている以上に強く届いたことだろう。喉の奥で悲鳴を上げて、女は向かってきた勢いを殺し錐揉みになりながら谷底へ落ちて言った。  川面の寸前で仕切り直すと、女は薄い霧の中へと姿を消していった。
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