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序ー3
「ここで騒ぐな、危ないぞ」
騒ぎ出した若者たちに軽く声をかけ、ロウは櫓の隅まで行くと空へ目を向けた。
渓谷の上流部、その上空。見えたのは、大きな黒い翼。大型の鳥獣属の翼だ。
「あぁ、あの方は……」
ちらほらと、遠目からその翼が誰なのかがわかるものが現れる。見知らぬ者ではないのがわかると、櫓の周りからは緊張が少しずつ解けていった。
視線を黒い翼へと向けたまま、ロウの隣に歩み寄った古参のひとりが声をかけた。
「竜将がお呼びになったのですか?」
「いいや。俺は呼んでない。今日は俺が戻るまで城塞の留守番を頼んでおいたんだが。……もしや王都で何かあったか」
疾風かと思わせる速さで、黒い翼はロウたちの頭上を通り過ぎて行った。長い尾羽がゆらりと残像のように流れて行くと、巻き上がる風が僅かに残った霧を吹き払う。
奇岩群を見事にすり抜け、翼の主は向きを変えるともう一度櫓へと向かって来た。数人かの小型種族の者たちが櫓の手すりにつかまって腰をかがめ小さくなった。ある者は吹き飛ばされぬよう、ある者は、本能的に。
黒い翼の大きさは、平均的な獣人の大人を四、五人並べてまだ余るほどあるか。若者たちは大きな翼を間近で見たのは初めてだったのだろう、自分たちの頭上を通り過ぎ、旋回して戻って来る姿に腰を抜かしつつある。
「彼は大丈夫だ。お前らを取って食いはせん、腰を上げろ」
古参のものたちは落ち着いて、苦笑しながら若者たちへと声をかけている。
「な、……誰、なんです、あの黒いお方は」
「普段は岩の城塞にいて竜将の傍仕えをしている人さ。ここにいちゃ会う機会も無いだろうからお前さんらが驚くのも無理はないか。この国で一番速く空を飛べるって話でな、全速力で飛び回ればあの竜将よりも速いらしい。いやぁしかし……あんな速度で空を飛ぶ姿を見たのは私も初めてかもしれん」
黒い翼の姿に怯える若者たちと、ロウへと視線を向ける古参の者たち。
様々な視線をよそに、ロウは旋回して戻ってきた黒い翼へと視線を向けたままだった。
櫓の手前、細身の奇岩へ降りようと上空で風を受け広がる翼は、真昼の空をそこだけ切り取って、光の中に隠れた夜空を露わにしたような、艶のある黒をしている。
霧の雫の付いた風切り羽に朝日が跳ね返るのを例えるならば、夜空に瞬く数多の星か。
「どうした、お前が飛んでくるなんて珍しいな」
ロウは黒い翼に向かって声を張った。相手はまだわずかに高い位置にいて、ここからでは聞こえるはずがないだろうとそこにいた者たちは思ったが。しかし、彼の声は不思議と遠くまで聞こえるのだ。霧の中でも、誰もがはっきりと聞き取ることができたように。
奇岩の上、谷底から登る僅かな風を掴んで、黒い翼は静かに足を着いた。
鋭い鉤爪を持つ細い山猫のような足先がしなやかに岩肌を掴み、黒い翼は器用にそこへ留まると、櫓に立つロウを真っ直ぐ見据えてくる。
姿は猛禽によく似ているが、首から上は狼属の顔に近い。頬から下顎、胸元にかけての毛色は白く、空気を含んだその羽毛は柔らかそうにふわりと膨れていた。
黒曜石の鋭い目に、黄昏時の藍色が向き合った。
「何があった、セイ」
もう一度問いかけたロウの声に、セイと呼ばれた黒い翼は耳を立て、口を僅かに開くと、喉にくぐもる声で短く答えた。
「城塞に御城から遣いが来た。女王がお前と俺を呼んでるから、来いと」
「城から? ……要件は」
「詳しいことは遣いもわからないと言っていた。とにかく急ぎの用件だ、としか……」
黒い翼は、わからない、という仕草を取るように畳んだ両翼を僅かに浮かせて見せる。
ロウは眉間にしわを小さく刻み、ため息をこぼした。複雑なものを抱えた表情である。
「厄介なことか、それともまた気まぐれか……」
振り返り、ロウは櫓へと集まっていた者たちへと声をかける。
「ノーラはいるか!」
「ここに」
ノーラと呼ばれて返事をしたのは、大型猫属の長身で細身の女だった。斑模様のある長い尾をゆるりと垂らし、音も無く歩み寄る。
ロウに対する態度が周りの兵たちとは僅かに違う彼女は、今現在、渓谷の見張り櫓とそれを束ねる砦の長として勤めている。ロウが最も信頼を置く部下の一人だ。
「昼までここにいるつもりだったが、どうやら急用らしい」
「そのようで」
「お前さんの夫には明日の朝までにここへ戻るよう伝える。この天気なら夜まで風も荒れることは無いだろうが、急変もあるかもしれんから、用心してくれ」
「こちらの事は心配無用。タキオがおらずとも、それなりに風を読めるものは居ります。――それより、お急ぎください、竜将」
「ありがとう。――後は頼む」
「お任せください」
ノーラへ礼を告げると、ロウは櫓の手すりを軽く乗り越え、身を乗り出すとそのまま躊躇いもなく谷底へ身を投げた。
「――!」
いくら鍛えた者とて、そこから下に落ちたら無傷で済むわけもない。見慣れている者でなければ、ぎょっとする光景だったであろう。実際そんな光景を初めて見た若者は腰を抜かして何とも言えぬ叫び声を上げたのだから。
「そんなに騒ぐな。運が良いぞお前たち、あの黒い翼の子もそうだが、竜将が飛ぶ姿なんざ、我らだってなかなか拝めないんだからな」
ふふんと、なぜか自慢げにノーラは若者たちに言う。
「よく、見ておくんだよ」
ロウが谷底へ身を落とした直後、黒い翼が飛び立った。その翼の静かな羽ばたきを追うようにして、谷底から色のついた風が舞い上がった。
その場にいたものたちの視線の先、並ぶ奇岩と、差し込む朝日の向こう側。青空の色と、薄く残った霧を蹴散らし駆け上がってきたその風……翼の色は、まるで青空に映える、竜骨山脈を覆う万年雪。
空に向かって登っていくのは、白銀の長い尾を持つ四足の獣。
蜥蜴とも鳥とも似つかぬ顔立ちに、額には二つの角。喉元と、背中側、すらりと長く伸びた首から尾に向かって、青緑に輝く鱗がきらめく。
羽ばたくごとに高度を上げ、見えない空の層を四足の鋭い爪が蹴り進む。
黒い翼とは対照的に、獣の姿へ転じたロウは、力強い動きを見せて空へと駆け上がって行った。
「あれが……竜将の、獣型の姿……」
見送った兵たちのすべての視線は、その姿が見えなくなるまで銀色の翼に釘付けになっていた。
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