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第七話『生き残り』 2
「…………セイ」
影は少し間を置いて、短く名乗った。
「あたしは、タウゥ……。ねえ、きいても、いい?」
部屋に簡易的に用意された治療用の寝台。敷布には水で滲んだ赤い色。そこに横たわったタウゥの髪は水に濡れ、短めの黒髪を僅かに長く見せている。耳はセイのものより少し細くて長く、警戒心を緩めた黒い眼は、真っ直ぐセイを見据えていた。
長身で、女にしては大柄の体形ではあったが、タウゥは獣型を解いてみれば、まだ成獣したばかりのような幼さを僅かに残した顔をしていた。その身を包む気配からは、成獣したての青臭さなど、かけらほども感じないのだけれど。
その気配から遠ざかるように、セイは座っている。
問いかけには答える気があるのだから、無視をする気ではない。微妙な距離感を保ちながら、二人は向き合っていた。
「セイレーンは、あんた以外、いなかったんじゃないの? 本当に、あんたの親とか、子供とかも、いないの?」
「いない。何度も言うが、セイレーンは俺一人だけだ。混ざりものもいない。俺たちは嘘なんか付けないって、わからないか?」
よくわからないという顔を見せて、では、さっきの声は何とタウゥは尋ねた。
「あれはセイレーンじゃない別の歌い鳥。……この砦のヌシ……、みたいなやつだ」
セイはちらりと視線を上に向けた。声の余韻を探るように、小さく耳が動く。
「……そんなやつがいたの。じゃあ、あたしたちが聞いた、セイレーンの群れっていうのは、違うやつのことだったのか……」
タウゥのため息に、セイは少しだけ申し訳なさそうに答えた。
「群れがあったのは四年前の話だ。……全体が狂いだして手が付けられなくなって、さっきの声の主が滅ぼした」
「滅びた……? 四年、前に……」
「俺はその時の生き残りだ。……あの声の主の、そうだな……戦利品とでも思ってくれればいい」
「戦利品……か。じゃあ、あたしも、あんたの戦利品になるの?」
小さな部屋の、内と外。傷を負ったものと、負わせたものが対峙する。
そこは、ルプコリスの所有する小型の船の中だった。セイと、彼が川に叩き落としたタウゥを保護し、頭上が落ち着くまで砦の下にある停留所に留まっていた。
ロウの声が響いた前後に僅かに船が泊まると、数人かがアルグの指示を受け降りて行った気配があった。残っている者たちの数は、片手で数えられる程度だろうか。
しんと静まる船内には、いまのところ彼ら以外にいる気配はない。
「……お前は、この船の持ち主の、捕虜だな。俺の時とは状況が違う」
「そ……」
それ以上は興味なさげに、タウゥは返した。
セイの群れの話は大河を渡る船乗りたちが広めて行った。その話が更新されないまま噂話として大陸中をじわじわと広がり、彼女たちの耳に届いたころにはもうずいぶんと時が過ぎていたのだろう。真偽定かでない程度。その位であれば彼女たちは本気で向かい合わなかった、小さな希望程度の話だった。
だとするなら、この近くで曖昧な話をしていた船乗りたちは遠方から訪れた者たちだったのか。それとも、あえて真実味を強くしつつ、霞のかかる話として広められていたのだろうか。後者だとするなら、彼女たちは釣られたことになる。
追われていたことは確かだ。ならば、はめられたのだろうと、タウゥは結論付けた。
捕らえられてしまったら、もう、どうしようもない。
はあ。と、頭の中を整理して、タウゥはため息をついた。僅かにきしんだ胸の奥、おそらく肋骨の数本が折れているような感覚がある。あるのに、痛みはやはり感じない。
「ねぇ。あたしに、なにか、した……?」
さっきから痛みを感じない。治療はされているようだが、それだけではあるまいとタウゥは問いかける。問われたセイはこくんと頷き、一時的に声の力で痛みを止めているだけだと返した。
「動かないほうが良い。動けばそれだけ早く声の力が解ける。……お前の身体はだいぶ弱っていて、ここにある鎮痛薬は使えないそうだから。できればそのまま静かに寝ていてくれ」
「そう。……まぁ、そうね。そのへんは、自分でもよくわかってるわ」
ふ、とタウゥは笑った。痛みは感じていないはずなのに、どこか痛々しい表情で。
先ほど遠くから聞こえた声のせいだろうか、本能的な部分ではここから逃げなければと思っているのに、体は動くなと言われても動けそうもない。
タウゥは諦めて、言われる通り力を抜いた。
「捕虜って、……あたしをどうするの。こんなボロボロな女じゃ、慰み者にもならないでしょ」
「そんなことはさせないし、お前がそんなことをする必要もない。……いいから、今は休んでてくれ」
セイは心底嫌そうな顔をして、タウゥの問いに答えた。彼女の問いが気に入らなかったわけではなく、言葉に重なった僅かな声が持つ意味が、セイの耳には不快だったのだ。
――そういう扱いを受けることは初めてじゃない。ただ相手が変わるだけ。でも、そこまでする価値が今のあたしにあるのかしら?
無意識に声に力が混ざる。感情を声色に乗せ、普段の会話にも混ぜ込んでしまうほどに、彼女たちは声の力を隠し抑える術を知らない。それもまた、セイには酷く不快に感じた。
彼女たちが負ってきた、何がしかの冷たく重たいものが見えた気がして。
「……もしかして、混ざった子でセイレーンを増やせるとか思った? ……でも先に言っておくけど、セイレーンの女が産む混ざった子は、声の力は無いんだからね。……力を持った子を増やすなら、あんたみたいな、生まれつきの雄が産ませる子じゃなきゃ」
「なに……?」
「自分の事なのに、あんたは知らないの? 血の繋がった群れひとつ滅ぼす代わりに生まれてくるのが、あんたみたいな、生まれつきの雄の子よ。群れを滅ぼすから忌子って呼ばれるけど……。見方を変えれば、忌子は、群れの最後の希望なの」
「……希望」
「あたしたちの生みの親、母様、が、そう言ってた。……あたしの雄親になったひとが、そういう、ひとだったから、少しは母様から聞いて知ってるわ」
知らないなら教えてあげると、タウゥは言って、話を続けた。
「雄に変わった女じゃなく、生まれつきの雄が相手なら、どんな種族の女でも声の力を持つ子を孕むの。だから、一気に、たくさん子供を増やせる……」
群れの血を濃縮して生まれる子。それが雄の個体だと、タウゥは言う。
群れに異常が現れたとき生まれ、その群れは枯れ落ちる定めを辿る。しかし、種子として外に出された子は、群れの外で様々な種族の女に血を分け、子孫を増やすことができる。歌い鳥の祖たちがそうして大陸中に亜種を増やしたように。
雄の個体とは、特殊な生殖方法で栄えたセイレーンという種族に組み込まれた、存続のための奥の手だったのだろう。
「……もちろん、血の繋がらない群れのセイレーンの女相手なら、種族として、より望ましいのでしょうけど」
あんたとあたしの間につくるのなら、確実にそれは純種のセイレーンになる。あんたが望むなら、産んであげようか。本気ではないにせよ、タウゥは声に混ぜて言う。その声に、とうとうセイが顔色を変えた。
口元を押さえ、身を縮め、何とか吐き気を抑えるように俯いて。
「……どうしたのよ」
「なん、でもな……い」
ぎゅう、と肩を強張らせたセイに、タウゥは視線を向けた。
何か間違ったことを言ったか。まさか、本当にそういう気はまったく無かったのか。女を前にすれば、雄とはそういうことを考えるのではないのか。
混ざり合う声に、さらにセイは耳を塞いだ。
「……なに。まさか、未成獣じゃあるまいし、そんな話に耐性無いほど初心ってわけじゃないでしょ?」
タウゥは喉の奥で、くっと笑う。
怪我を負い、動けない者を前にしてなお、怯える気配を向けてくる男の姿が彼女にはおかしく思えたのだ。先ほど、ためらいも無く自分の背中を引き裂いた本人だというのに。
「それとも、そこまで女が苦手になることがあった? ……ああ、そうか。あんたの群れは、狂いだしたって言ってたっけ……」
柔らかい声には、さっきまでの押し付ける誘惑の色が抜けていて、何かを察したような、どこか憐れむような声だった。
「ねえあんたの群れの話を聞かせて。……あたしも、あたしのいた群れの話をしてあげるから」
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