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第八話『願い』 1
緊張が和らぐ中、ロウは視線を下流へと向けていた。
逃げて行った黒い翼が作り出した僅かな霧の切れ間、見慣れぬ形の船が一艘下流へと流れていく。崖の上には、船を追って走り出した数匹の狼の姿がちらりと見えた。あれはおそらく、ルプコリスの、アルグが配置していたコルナウスたちだ。
「…………見てたんなら、少しは助けてくださいよ」
「申し訳ありませんけど、あれじゃ何もできませんよ。私たちは飛べませんし」
獣の姿を解き、櫓のひとつへと降りて来たロウを迎えたのはアルグだった。目の前に現れた銀狼に対し、ロウは僅かに疲労を含めた声を向ける。
「どんな話広めてあの連中こっちへ追い込んだんですか。……場合によっちゃあ、今後の国の防衛と砦の運営と、俺たちの生活に支障が出るんだが」
「まあ大した事では無いですよ。セイレーンの群れがまだここにある、……かもしれないと触れ回っただけで。……このあたりにいる船乗りたちはもうここにセイレーンの群れが無いことは知ってますし」
ロウの棘のある言葉をさらりとかわし、アルグは答えた。
「それで。いつからそこにいたんです」
「今ここまで上がってきたばかりです。貴方に報告と、相談がありまして」
眉間にしわを刻んだまま、ロウがため息をこぼした。
「相談?」
「女を一人拾いました。さっき貴方が追い払った女の妹だとか」
「……セイは。そいつを追いかけてったみたいだが」
「セイ君も一緒です。彼は無傷ですが、女の方は……」
応急処置としての治療はしたが、元から弱っていたようでおそらく長く持ちそうもない。アルグは言うと、足元の停留所に止まっている船を指さした。
「軽く意識を失っていたんですが、治療途中で声を使われて威嚇されましてね。セイ君が守ってくれたおかげで、こちらに被害は出ませんでしたが……」
短いため息があった。アルグの表情が僅かに曇っている。
「我々は情報が欲しい。非道と思われるかもしれませんが、彼女の息があるうちに少しでも話を聞きだしたいんです。……なのでセイ君に暫く付き添いを頼みたい。彼がいれば、あの娘も少しは落ち着いて話をしてくれるでしょうから」
「あいつが良しとするなら、そうしたらいいでしょう。……なぜそんなことを俺にわざわざ言うんです」
「……長時間、女と二人きりになるのはいやだと、彼が言うもので」
ロウは、アルグのその言葉に何かを思い出したのか。あぁ。と短くつぶやいてから額の角を軽く掻いた。
「最近ずっと城塞とここの行き来でばかりだったから忘れてた。……そりゃ、目の前に、……特に同種族の女がいるんじゃ、そう言うはずだ……」
何のことかと尋ねようとして、アルグもはっと思い当たった。
セイの群れは手が付けられぬほどに狂いだした群れだった。セイ以外では雄にならない女ばかり二十ほど。その中でただ一人、最後まで正気を保っていたのがセイである。それは幸いなことだったのか不幸なことだったのか、話を聞いただけのロウやアルグには想像するほかない。 けれど、後にセイが必要以上に女を恐れるようになった、という事実だけでも、彼の中に残った傷跡は決して簡単に癒えるものでは無いということだけは理解できた。
「わかった。……急ぎましょう」
「ええ」
櫓を降り、ロウは被害の調査と、周囲の警戒を怠らないようにと命じると、船の周りから人を遠ざけさせた。
船着き場から人気が遠のくのを待って、二人は船へと向かって行く。
先ほどの騒動の緊張感を覆い隠していくかのように、辺りを包む霧は深くなっていった。
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