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第九話『呪いの名』 1
「あたしは……あたしは……」
震えながら、女は船に戻ってきた。
今まで聞いたことも無いような強い力で放たれた、同種ではない何かの『声』に圧倒され、文字通り逃げ帰ってきたのだ。
「……あたしは、つよい。あたしのいうことなら、……いうことなら、みんなきく。あたしは、みちびくための……」
ぼそぼそとつぶやく声は、女の細いつま先に落ちて消えた。
癖のある長い黒髪を無造作に背中に流し、耳は怯えを露わに後ろへ倒れ、女は青白い顔のまま甲板を横切り、船内へと入っていく。
何度も言い聞かせるようにつぶやきながら、発光力を失いつつある光石が淡い光を落とす通路に降りたときだった。
「おかえり、ビキ……無事だったかい?」
薄暗い通路の奥から、三人の女を連れた狼属の男がゆっくりと歩み寄ってきた。
「ああ。ああ。怖かったね。こんなに震えて」
壮年期を過ぎ、初老というにはまだ少し若さが残る。色も見た目も乾いた草のようになった毛並みを後ろで一つに束ねた細身の男だ。枯れた印象はあれど、身なりは良く、落ち着いた雰囲気からは育ちの良さのようなものが窺える。
白い毛の混ざる肉厚の耳をぺたりと寝せながら、男は心配そうに細く節立った指先で震えて戻ってきた女、ビキをそっと抱き寄せ、髪を優しく撫でた。
「群れがあるなどという話、きっとあれは、我々を誘い出すための嘘だったのだろう。……ああ、ああ。忌まわしい灰色の狼らの仕業に違いないとも。……我らはそれを信じさせられて、奴らの策にまんまと嵌まってしまったのだ。……ああ、ビキ、可哀想に……、可哀想に……」
「……フォロゴおじさま」
「お前はただ純粋に、新たな群れを探していただけなのになあ」
言って、男、フォロゴは黄色がかった緑の目を潤ませた。
「別の群れは諦めよう。……無かったものは仕方ないよ。けれど、約束だものな。私の目的を果たすと共に、お前の夢も、きっと叶えてあげるとも」
「……そうね、ここがダメでも。まだ先がある、望みはある……」
まだ少し怯えが残っていたものの、フォロゴの言葉に、ビキの目にはまた強い光が戻り始めた。
うんうんと、男は頷いた。
その後ろから、別の声がビキに向けられた。
「ところで。……戻ってきたのは貴女だけ?」
「タウゥも連れて行ったでしょう」
「置いて来てしまったの? それとも、あの子は逃げてしまったの?」
男の後ろに控えていた女たちだった。
ゆったりとした鮮やかな衣装に身を包んだ女たちだ。ビキよりもずっと女の色が強く強調され、声にも沸き立つような色香が混ざる。
鈴の転がるような高い声に軽い笑いを含ませるその音に、ビキの表情が苛立ちを露わにする。
「……タウゥは、落とされた」
「あらあら……。可哀想に」
答えに、感情など含まない哀れみの言葉が返る。
「あんな奴らがいるなんて……、知らなかったんだから、しかたないじゃないか!」
「でも、戦力が、減ってしまったんでしょう?」
「いざとなればお前たちの子を使う! 声も使えない混ざり子でも、そのくらいはできるでしょう!」
「そうねえ、貴女がみんな壊してしまったから、それにしか使えないものねえ」
きゃらきゃらと笑う女たちに、ビキが怒鳴り返そうとする。その背にフォロゴはぽんと手を添えて止めさせた。
「何、お前がまだ飛べるなら、大丈夫。大丈夫さ。なあ、ビキ。……お前は強い、お前の声があれば、混ざり子たちも、ちゃんと動いてくれるよ」
「……もちろん、もちろんよ」
またひとつ、ぽんとビキの背中を軽く叩いてから、フォロゴは背後にいた三人の女へと言葉をかけた。
「さて、さて。見張りを頼むよ、お嬢さんたち。……周りに何匹か狼がいるからね、気を付けて。さっきの声のやつらは追っては来ていないようだけれど、そちらも、注意しておくれ」
「ええ。任せてちょうだい」
「なんなら、狼たちを誘い出して食べてしまっても構わないよ。君らの子どもたちも、お腹を空かせる頃だろう?」
「あら。うふふ……でもねえおじさま。この前の狩りの残りがまだあるからしばらくは大丈夫よ。それに、狼さんはあんまり、美味しくないのよね」
「おや、それは残念だ」
ふわりと通り過ぎ、女たちが笑いながら後ろを振り返るとビキとフォロゴが船室へと入っていくところだった。
フォロゴはビキの背を撫でながら、何度もお前は悪くないと声をかけていた。それを視界の隅で見送りながら、女たちは通路を進み甲板へと出て行った。
「哀れな子」
「不憫な子」
「でも」
ひそひそと女たちは言い合って、それからまた、赤い口元をゆがめて笑う。
「何て幸せな子なんでしょう」
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