第十話『夢』 6

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第十話『夢』 6

 顔色は悪く、うなされ続けているロウを見下ろして、ふう、とトキノは息をついた。 「さすがに起こしてやるほうが良いかな。それとももう少し、こいつの寝言を聞いているかい?」 「起きるのか、これは……」 「お前が呼べば起きてくれるさ。なんせこいつの心の深いところは、……長いこと、夢かうつつかわからぬところを彷徨っていて……自分が生きているのか死んでいるのかすら定かでないんだ。……ここにあってここにない、迷子みたいなものなんだもの」  時折ロウは、遠くを見ては複雑な顔をすることがある。トキノが何かと問うたら、彼は、見慣れたはずの風景が見知らぬものに見えることがあるのだと返してきた。 「ここに、リーパルゥスという国に、こいつはまだ、足を着いていないのだろうね」  小さな手のひらが汗ばむロウの額に触れた。熱は無い。ひやりと冷たい肌の感触は、トキノに少しだけ、このままでは危ういと感じさせる。 「迷子……」 「歌い鳥は、名を呼ばれることで自分が何者か知るのだろ? だから、私がどうこうできるところに、こいつは居ないんだよ……悔しい話だがね」  言って、トキノは少し昔の話をする。 「こいつが、この国に来たのは六年、七年くらい前になるか。……私が王の仕事に慣れて、何とか国の形を保てるようになった頃だった。こいつがここにたどり着いたときには、本当に、他に例えようもないほど飢えた手負いの獣そのものでね……。でも、安心させたら気を失って、何日も昏睡状態が続いてたっけ」  浅く呼吸を繰り返しながらうなされるロウを見て、あの時もこんな感じだったとトキノは言う。 「竜骨山脈の向こう側で謀反の疑いをかけられて……本当に疑いで、そんなつもりは無かったようだけど。追われて逃げてきたと言った。それ以上詳しい話は私も聞かされていないけど。ロウを逃がすために多くが死んで、……山越えの最中、自分の判断間違いで最後の仲間を失ったとは聞いている」 「判断間違いって……、何したんだ」  こいつがそんなことをするのかというセイに、トキノが、聞いていた限りの範囲で答えた。 「風の読み違い、だったとか」  額に張り付く青みを帯びた銀の髪を、トキノは指先でそっと流してやった。手つきは優しく、そこにいるのは少女ではなく、近寄りがたい成熟した女の様にも見えるのがセイには不思議だった。 「まだ飛べたはずの者を、それで落としてしまったと。そこで失ったのが同種族……ローレライの者で、それっきり、自分を呼ぶ声は無くなったと、言っていたか」 「風……」  セイは察した。事あるごとに風読みが上手いと褒め、教えてほしいと言っていた意味を。そして、トキノの言う、迷子だという意味も。 「お前を助けた……いや、殺せなかったのは、そういう理由だろうね。……お前の声と翼が、こいつの内側の何かに触れたのさ。こいつはお前に『生』を見たんだ。こいつがお前のことを助けろと言ってきたときの、まあなんと必死だったことか。助けなければ俺は死ぬぞとまで言ってたか。ふふ。お前にも見せてやりたかったよ。……とは言え、あの時のお前は死にかけていたけどもな」 「……」  子供のようにトキノは笑みを見せる。少女から女へ、大人から子供へところころと変わる彼女の気配に、セイは肩の力を抜いて向かい合うしかできないでいる。常に女への恐怖を感じないのは、助かる話だったが。  そんなことがあったのかと、自分が知らなかった自分の話を持ち出されて、セイが溢せば、トキノは真っ直ぐ深紅の目を向けてセイに告げた。 「うん……。だからきっと、こいつはお前の呼びかけで目を覚ます。いや、今はお前の呼びかけでしかこいつをここに戻って来させることはできない」  だから、お前の声で、ロウの名を呼んでやってほしいと。 「良い機会だ、この際ここで目を覚まさせてやってほしい。……こいつにはしっかりとこの国に根付いて欲しいんだ。それに、こんなことくらいで倒れてもらっては困る……私のためにも、これから先の、この国のためにも」  すとんと、腰かけていた寝台から降りると、トキノはセイの背を軽く叩いて促した。 「頼むよ、セイ。これは、お前にしかできない事だ」  言い残し、トキノはセイの気を散らせぬように部屋を出て行った。朝に片づける仕事があったのかもしれない。  トキノが部屋から去るとまた静けさが部屋に満ちる。 「あらかじめ誰かに形作られたものならば、逃げることはできないが、揺らぐことも無い……か」  ロウはビキの名を呪いと言ったが、幸福な名だとも言った。その意味をセイはようやく掴みあげた。  ――お前はずっと揺らいでいたのか。自分を見失いそうになって。記憶の中に残る誰かの呼び声に何とか縋って。ぐらつく足場に必死になってしがみついていたのか。  失った記憶の中の何処かに自分を置いてきたままの男に、ここが新たに翼を休められる場所だと教えたら、目を覚ますだろうか。沈む夢の中から浮上してくれるだろうか。  セイは内心そう呟いて、頭の中でロウの声を手繰る。  声に関しては多くを聞いたわけでない。普段の姿、力を乗せぬ彼の声。近くで見て来たすべての事をかき集めて、声に乗せる力の純度を高くしていった。 「……音だけでは意味を成さず……感情や名の持つ意味を込めて呼ばれて初めて、そいつそのものを形作る言葉になる……」  意を決し、セイはすっと息を吸った。  ――難儀なイキモノだな。俺たちは……。 「……迷子は終わりにしよう。お前が俺の名を定めたように、俺がお前の居場所を定めてやる」
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