第十一話『幻竜の将』 2

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第十一話『幻竜の将』 2

 その声は、波ひとつない水面に落ちる一滴の水。たん、とはじけた水音に、辺り一面が見事な星の夜空へ変化した。深い青、濃縮された空の色。そして静寂。何か特別な空間に包まれ、ロウは辺りを見渡した。  緩やかな波紋は真円を描いて広がって、揺らいだ後に水鏡は数多の星を映し出す。肌に触れるのは温かくも涼やかな風の心地よさ。血生臭さも、何かの焼ける臭いも感じない。  代わりにふわりと薫るのは、草木生い茂る豊かで湿った土の甘い匂い。聞こえてくるのは鳥のさえずり。絶えることなく流れ続ける澄んだ水持つ滝の流れ。賑やかに笑う人々が集う声。  音に意識を向けながらロウが歩みを進めると、足元の水鏡にゆらりと波紋が広がって、映し出す光景を星空からどこかの谷間のものへと変え始める。一歩進むごとに広がる波紋はやがて空までをも浸食し、明るい陽が射す、水も緑も豊かな景色へと塗り替えた。  大きくは無いが、栄えている街がある。周囲は森と湖沼群。谷の両側、幅広の段になった部分には畑や牧草地が点在していて、中央を流れる川には大きな滝と、荷を積んだ船が見えた。そこには戦の気配は無く、聞こえる音にも張り詰めたようなものはない。  草木一つ一つがそれぞれに持つ色を敷き詰めた山肌には、青空に広がる薄い雲が影を落としていた。光と雲の作り出す明暗は、姿の見えない風の衣のようだ。  見知らぬ風景の中に胸を締め付けるほどの懐かしさを覚える。叫びだしそうな、泣き出しそうな、けれど心のどこかに静寂を生み出す光景だった。  ロウはそれを不思議な気持ちで少し離れた位置の岩山から眺めていた。 「綺麗だ……、なんて美しい……」  ここはどこだ。ルーテの中にこんな美しいところがあっただろうか。広がった見知らぬ光景になぜか愛おしさを感じながら、周囲を見渡し、ロウはそう小さくつぶやいた。 「美しい? それは、手に入らないものを指して褒める言葉だろう」  風景を一歩引いて眺めていたロウの耳に、誰かの声が届いた。つぶやいた言葉に対する返答などあると思わず、ロウは肩を揺らす。 「ここはもうすでにお前を受け入れ、お前の手の届くところにあると言うのに。おかしなことを言う」  苦笑するような言葉が返る。聞き覚えのあるような、無いような。そんな声だ。  ロウは声に対してさらに問うた。 「受け入れている? こんな美しい場所に、俺の居場所があるというのか? 誰も俺の名を呼んでいないというのにか」  呼んでくれた者たちは、居場所を与えてくれた者たちは、すべてなくしてしまった。すべて、自分のせいで。 「俺が……。あいつらを守り切れなかった男が、こんな美しい場所に居ていいはずがない。他に居場所など、設けていいはずもない……」  ロウがそう言うと、声は返す。 「いいや。お前はそうやって、自身を偽っているに過ぎない。本当は気づいているのだろ。居場所はすでにあるのだ、望んでいいのだ。ただお前が不安定なままそこに座すことを恐れているだけだ。名を呼ばれ形を成すことと、居場所を得ることは違う。お前がお前を否定し続けたら、本当に守りたいと思えるものも守れないままだぞ」  だから早く目を覚ませと、声は言う。 「……お前は、誰だ、何者だ」  ロウは周囲をさらに見渡して、声の主を探した。山から幾筋も流れる小川が合流し、谷へと落ちるその手前、朗らかに笑う者たちの群れを岩の城塞の上から見下ろしている者がいた。  空の青を微かに溶かした白銀の翼持つ獣だった。長く癖のある毛を纏う尾を揺らし、黄昏時の藍色の眼を、じっとロウへと向けている。  目が合うと、獣は飛び立ちロウの側へと音もなく降りて来た。
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