第十二話『谷と崖の国』 1

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第十二話『谷と崖の国』 1

 昼を回ると、リーパルゥスの王都では昨夜の話題で盛り上がりを見せていた。ほんのわずかの時間にあった、澱んで暗く血の匂いを含ませた話題はいつの間にか消え、今人々の間で行き交う話題は大祭への不安に関わる事のみである。  夜に発った城塞の主が、一人でねぐらへと戻ってきたのはその頃であった。 「竜将!」 「ああ」 「あの話本当ですの?」 「何の話だ?」 「国境に、またセイレーンが現れたとか」 「ああ、それか」  城塞の門を前にしてロウは好奇心ゆえか不安からか集まってきた者たちに囲まれてしまった。歩みを進める歩幅は人が集まるごとに距離を縮め、いつしか止まってしまうほど。 「竜将、大祭はどうなるんですか」 「大丈夫だ、心配することはない」  山城でも聞かれたが、城塞に戻ってからも合わせて何度目の返答だろう。ロウは思って声を上げた。 「聞かれるたびに同じことを繰り返し言うのも煩わしい。詳しい話が聞きたいと言う者は、今から半時以内に城塞内の会議場に集まるように。話はそこでする!」  ロウはぴしゃりとそう告げて、城塞の門をくぐると、ざわつく集団をそのままに執務室へと向かって行った。 「竜将」  途中、事務官たちの詰める部屋からロウを呼び止めた声があった。また面倒な質問かと思った耳はすぐに違うと察して、ロウは安心して足を止めた。 「おかえりなさい。待ってましたよー」  部屋から顔だけを出し、ロウに向かって手を振ったのは、城塞事務方の長、カエンである。 「カエン、ちょうどよかった。これからお前を呼び出そうと思ってたところで……」 「ぼくも、執務室に向かおうとしてたとこです。……ああでも、ここで話は済みますんで、ちょっとお時間くださいね」  足を止めたロウの前に、部屋からカエンがのっそりと背中を丸めながら現れた。手には書類の束と、大き目の紙筒がひとつ。それをロウに差し出して言う。 「今朝、城塞から翼便で届きました。急ぎでね、タキオからっていうんで、ぼくが預かっときましたよ。あとこれは、ノーラ姐さんから。昨夜の報告書ですって。流石姐さん、仕事が早いや」 「報告書は後で見る。タキオからは、……ああわかった。昨日受け取るはずだったんだ。……ありがたい、届けてくれたのか」  受け取り、ロウはカエンを見上げて言った。 「そうだカエン。これから会議場を使いたいんだが、開けてくれるか。昨夜のことを少し説明してから、その後は。……俺はヴァリスコプへ向かう。居ない間、そこらへん適当に誤魔化しておいてくれると助かるんだが」 「へっ? 議場なら、今日は使う予定はありませんから、すぐ開けられますけどぉ……、ヴァリスコプ? 何故?」  驚いて背中を伸ばしたカエンの姿に、ロウは苦笑しながら指先でちょい、と屈むよう促した。従ってカエンは膝をかがめると、耳をそばだてる。 「彼の狼王がご助力くださった。お前の言っていた通り、あのお方も独自に動かれていたようでな。……お前たちの働きを見て俺が何をしたいか察してくださったようだ」 「ひえ。……そんな。それじゃ密偵の意味が……」  申し訳ないと背中をまた一段と丸めようとしたカエンの背を、ロウは軽く叩いてやる。 「そうでもない。お前たちは充分に働いてくれた。あのお方は上に話を通せる道をくれたに過ぎない。そこから先、俺がヴァリスコプの王にのみ話を通せたところで、短時間で末端にまで情報を行き渡らせるのは困難だろう。……お前たちはその末端……特に支流域を警備してる兵たちに話が通りやすく道を作ってくれてると俺は思ってるが。それはもちろん可能なんだろ?」 「ええ、そこらへんはしっかり固まってますよ。……ぼくらができたのはそこまででしたけどねぇ……」  それでも満足しきれないのか、カエンは言葉を濁す。 「すまんな。そこは俺にも原因がある。……人を増やせるように俺も少し城側に働きかけてみるさ。次にまた何かあった時、お前たちがもっと動きやすくできるように」  では、議場の鍵を開けておいてくれと言って、ロウはその場を後にする。  背中を見送るカエンは、丸い眼をさらに丸くしてから、にんまりと笑って見せた。 「おやや、また良い具合に鋭い眼になっちゃってまぁ。何があったのかな。……こりゃあ、渓谷の砦連中にも報告しなきゃー」  呟くと、うふふと鼻歌をカエンは議場の扉を開きに向かって行った。
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