第一話『沼の国』 3

1/1

34人が本棚に入れています
本棚に追加
/81ページ

第一話『沼の国』 3

リーパルゥスの滝周辺では今、水上大祭へ向けての準備が始まっていた。  滝の上流に造られた東西を結ぶ大橋では点検と補強の手が入り、橋から西側、城下町と、その先の、王の住まう山城へ続く道は補修工事が。東の段丘の低い位置では、水位が上がるにつれ田畑に塩水が入らぬようにと水門が閉じられ、風車での排水と、水路の組み換えが始まっていた。  作業に当たる者たちは忙しなく動き回っているものの、見える姿にはよどみも濁りも感じない。 「忙しそうにしてるけど、どこか楽しそうだな」  セイが言うと、ロウも視線を僅かに下へと向けて、ああ、と嬉しそうに答える。 「みんな楽しみにしてるからなあ毎年」  その光景を真下に見下ろしながら、銀と黒の両翼がゆったりと空から降りてくる。それを見つけた者たちが手を振って彼らを見送る先、滝を見下ろす段丘の高台に座す山城がある。  山頂に王の住まう御城を置き、裾野から山腹にかけて主要な館が群れを成して並ぶ。  大国の城と比べれば、それは城というほどの大きさも、風格も、威厳も持たないものかもしれないが、全面には大滝、その周囲は湖沼群、見晴らしのいい緩やかな段丘の上という立地で言えば、その山城は周辺国のどの城よりも、城を構えるにふさわしい場所に建っていると言える。 「なぁ。トキノの用事ってのは、何だと思う?」 「そんなこと俺に聞かれても困る」  ゆっくり高度を下げつつ、彼らは上空を旋回し始めた。  らせんを描くようにして降りていく最中、ロウが問うた。 「急なことと言うが、思い当たる節が無い。……いや、無くは無いか。東側の船着き場の補修を優先させたことか、それとも、上流部の開墾の準備を始めたって話を出したことか。西側の水路補修に何か不満が上がったのか……? 不満を言うなら俺に来るはずなのに、それが女王を経由するっていうのは……ある話だろうか」  祭りの準備は滞りなく進んでいる。城からの急な呼び出しだとして、そこに女王が直々に呼び出すほどのことは、ロウには思い当たらない。  小さなことを上げていくロウに、セイは小さくため息で返す。 「たまにお前はそういう細かいことで誰かが文句を言ってくることを気にしてるが、それだって、必要だという要請があったからやってるんだろ? なら、今回はいつもの女王の気まぐれな呼び出しじゃないのか」 「……それならお前まで呼びつけはせんだろう」 「それは、……確かにそうだな」  獣人の世界において女の王は珍しくはない。この国もまた、国……群れの長に就いているのは女である。  王の名はトキノ。獣人の種族分類において混沌種という部類になる。種族の名を指すならば、(キマイラ)、魑魅魍魎、ときに究極の混雑種、と呼ばれているだろうか。様々な獣の血を引いているため同種族としての純血種は存在しない。親兄弟の関係であっても、引き継いできた多種多様な種族の血がどう表れるか全く不明なため、同一種とは呼ぶことはできないという特殊な血筋の末に立つ女だ。  辺境にありながらリーパルゥスが国家として存在できるのも、彼女の血筋が獣の気配を強く持ち、縄張りを張り、それを長く根付かせて土地を守護してきたからである。  そのトキノが王位に就いてから、赤い月の数えで十年近くになる。在位は長いと言うほどではないにせよ、荒らさず乱さず、感情に任せたような執政はとらず、発展こそ遅くなりがちだが、落ち着いた統治を行っていると国民には慕われている。  だが女王は、度々気まぐれで城にロウを呼びつけると、あれはどうしたこれはどうしたと問うてくることがあった。気になることがあるからすぐに行って見てきてくれ、などと言うことも。  内容は軽いものから厄介事まで様々。ロウはその都度自分の仕事を後回しにして女王を優先させてきた。突然振り回されることになっても、それがその時、様々な視点から見て必要なのだろうと思えたからこそ、従ってきた。  ただ、今回の件はそれとは違う気がすると、ロウは感じているのだ。 「遣いが要件を知らんというのが気にかかる」 「お前が何かやらかしたんじゃないのか?」  セイが答えて、また少し高度を下げていく。 「だからそれも、思い当たるものが無いから、気持ちが悪いんだ。俺は」 「じゃあ、俺には尚更わからん」  くるりと、セイは先に下へと降りていく。 「……あいつの気に障るようなことがあった、とかじゃなきゃいいが」 「そこまで自分が信用されていないと思ってるのか、お前」 「……そんなことはないが。……そういう、ことじゃなくてな」  ぼそりと、呟くロウの声はセイの耳にははっきりと届かなかった。  山城の中央付近は短い芝と細かな砂で整地され、周囲は均等に整えられた生け垣と、低い石垣で囲まれたゆるい傾斜の付いた広場がある。一見すると狭い牧場か何かのようにも見えるそこは、城に仕えるものや、外から訪れる翼ある者たちが利用する離着陸用の広場であった。  そこへ先に降り立ったのはロウである。  上空で数回旋回しつつ爪と翼とで勢いを殺す。地面近くまで降りてまた数度羽ばたきを繰り返し、さらに速度を落とす。長い尾が数度揺らいで均衡を保つと、ようやくゆっくりと四足が土を踏んだ。  着地して、いちど大きく身震いをしたロウが、ぐっと背中を伸ばした。獣の姿はほんの一瞬ぐにゃりとかたちを溶かすと、飛び立つ前の人型の姿へと戻っていった。  獣人は、獣型と人型の二つか、あるいはそこに半獣型と呼ばれる中間の姿を合わせた三つの形をもつ。個体や種族によって違いはあるが、このくらいの変化であれば誰もが行えることである。  人型の姿へと変わったロウの視線は足元から上空へと移った。ロウの軽い癖のある銀髪を強く巻き上げたのは、続いて降りて来た黒い翼であった。  砂塵を巻き上げることも無く、ふわりと、翼は軽く風だけを逃がして土に降りた。  その姿に、ロウは短く吐息を漏らす。 「飛ぶのも降りるのも見事なもんだ、……お前は本当に風を掴むのが上手いな。いい加減、俺にもそのコツを教えてくれないか」  降り立った風の余韻が僅かに足元の芝を撫でて消えていく。柔らかな風が草の青い香りを立ち昇らせた。 「……俺は教え方を知らないから、無理だって言ってるだろ」  セイも続いて人型の姿へと形を変えた。背丈はロウよりも低くはあるが長身で、細身な体形だ。真っ直ぐ伸びた髪色は、翼と同じ夜を溶かしたような濡れ羽色。眼の色は良く磨かれた黒曜石。  その眼が、僅かにロウを睨む。 「それに、お前はすぐ考え事で上の空になってふらふらするだろ! ……あんなんじゃ、並んで飛んで教えるにしても、こっちが落ちかねないから、嫌だ!」  頭頂部にぴんと張った薄い耳が細かく揺れている。誤魔化すように乱れた衣服を正しながらつぶやく言葉は、照れ隠しのものだろうか。 「……厳しいな。……ま、実際そうだから仕方ねえか。さっきも怒られたばっかりだしなあ」  苦笑しながらロウが答えた。  滝から吹き上げてくる朝の風がひときわ強く駆けていく。その風で気分を切り替え、ロウの眼が山城へと向いた。  その眼には、僅かに不安が入り混じる。 「さて。女王陛下は何の用事でお呼びくださったかね……」  広場から見上げる先、緩やかな山に点在する館の屋根よりさらに上。山頂の御城にはこの国の主が待っているはずである。
/81ページ

最初のコメントを投稿しよう!

34人が本棚に入れています
本棚に追加