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第十五話『諦めきれぬもの』 1
箱庭に流行り病の起きる前。季節は春の中頃で、セイレーンを含めて箱庭にいた大抵の種族が交配期、いわゆる恋の季節を迎えていた。
成獣した者たちにはどこか甘ったるいような雰囲気があって、箱庭中にふわふわとした空気が満ちている。この季節は箱庭に関わらず、その年交配期にならなかった者や未成獣の者たちには少し居心地の悪さがあるものだった。
箱庭のセイレーンの群れの中では、他の種族よりも大きく動きのある時期でもある。
一番大きな変化と言えば、女しかいないはずの群れの中に雄になる者が現れることだろう。
雄化した者の周りには女たちが集まって賑やかになる。多くの種族は子を産む側の女が交配相手の雄を選ぶものらしいのだが、セイレーンは雄が女を何人か選んで子を成すためだ。
雄化した者が雄でいる期間は短い。その間に選ばれようと女たちは競って誘い歌う。甘い歌が溢れてさらに空気が甘さと熱を帯びる。
箱庭では、雄に選ばれることを待つよりも、他の種族の男を自分で選んだ者が群れを抜けていくことも増えていた。代わりに、血を混ぜることを良しとしなかったセイレーンの集団が、一人でも多くと子を増やす。それで箱庭のセイレーンの種族の数はある程度保たれてきた。
出会いと別れと、数多の一期一会の感情を乗せた歌い鳥の歌があちこちから聞こえてくる春の季節。他種族との交配を許していない集まりの中に生まれた一人の少女は、まだ成獣していない頃よりその季節になると、妙な使命感に追われるようになった。
幼い頃から群れを率いて行くという名を負わされ、いずれ雄になり、女を選んで子を増やすのだと育てられた。選ばれる側ではなく、選ぶ側になるものだと。周囲がかけた期待は何の根拠があったのかはわからない。けれど彼女は、群れをつくる者であれと言われ続けていたのだった。
「わたしは雄になりたくはないし、ならなくて良かったって思うのよ。……でもわたし、ビキはいつか雄になるものだと思っていたの。思い込んでた、って言えば良いかしら。でもあの子、雄にならなかった。それとも、次の交配期になれば雄になるのかしら。どう思う、クロラ」
雨の降る中、けだるそうな声で窓の外を眺める女が呟いた。片耳の欠けた女で、長く艶のある髪を黄色の髪紐で束ねている。ゆるりと窓を撫でた手には大きな傷があり、力なく縮こまった指先は彼女の翼が開かないことを伝えていた。
「そうねえ。私もあの子が雄になるものだと思ってたわ。……あの子が早く雄に変わってくれたなら、私たち、前にいたところで捨てられることもなかったのかもしれないのよね。そしたら群れもあの子の望むようなかたちで数が増やせていたし。……でもどうして、長老たちは、あの子が雄になるなんて信じていたのかしら。雄になる条件って、何かあるの?」
名を呼ばれた女、クロラがふんわりと返した。こちらの女は癖のある黒髪に緑色の髪紐。太めの紐は緩やかに羽を休めた蝶のよう。彼女はしっかり開かない両掌で器を抱えると、艶のある唇に押し当てる。す、と短く吸われた液体が、鮮やかに赤く唇を染めた。
「アタシ、なぜか知ってるわ。でもこれは、フォロゴおじさまには内緒の話よ」
ひそりと言った女の声に、二人が近くへとにじり寄る。
知っていると言ったのは、真っ赤な髪紐で後ろ髪を束ね、顔の半分を髪で隠した女である。内緒ねと言って唇に当てた指は細く、他の女たちの手と比べると彼女の手は格段に小さい。
「なあに?」
「おしえてちょうだいな」
女たちは肩を寄せ合ってくすくすと笑いながら話をする。少し湿って暖かい部屋の中で、密やかに交わされる女たちの会話は毒を混ぜた蜜のような、危うい甘さを含んでいた。
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