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第十五話『諦めきれぬもの』 2
「ねえサルハ。昔、箱庭に現れた雄のセイレーンのこと覚えている?」
赤い髪紐の女が溢す。
サルハと呼ばれた、黄色の髪紐の女が答えた。
「ええ、覚えているわ。タウゥのお父様になった人よね。背が高くて、毛並みの短いセイレーンだったわ。……そういえば、タウゥはあの人に似ていたかしら」
三人は幼いころ見た姿を思い出す。おぼろげにしか覚えてはいなかったけれど、それでも記憶にあったのはその人物が特別だったからに他ならない。
「私も覚えてるわ。村中が大騒ぎだったもの。特に長老さまたち」
「生まれついての雄の人が現れたって言って、ものすごく、はしゃいでたわね。……何とか群れに留めようとして、うふふ、他のどのおねえさまたちより、長老様たちの方が誘惑していたように見えたのが、子供ながらにもおかしかったっけ」
くすくすと笑いながら、女たちは昔話に花を咲かせる。彼女たちにとってそれはもう、ひとつ区切りをつけた過去なのだ。
「それで、その人が何か関係があるの? フォスル」
緑の髪紐の女が問うた。赤い髪紐の女、フォスルは、うんと頷いてまたひとつ声を潜める。
「あのひとはね。ビキのお父様でもあるのよ。……アタシ、前にタウゥから聞いたの」
「あら、そうだったの」
「じゃああの姉妹、本当に姉妹なのね。雄親まで同じなんて珍しい」
「そうなのよ。……それでね」
フォスルはひそりと語り始めた。タウゥが話して聞かせたという、自身の親についての話だ。
男は箱庭にセイレーンの群れがあると知ってやってきた。人目に付かぬようこっそりと。そこでビキの母と出会い、その後すぐに、女は卵を一つ産んだ。それが、ビキだ。
「……けれどあの二人のお母様はね、その雄のひとに、他の女との間に子供をつくってほしくなかったんですって」
「へぇ。交配相手なんてその時々で変わるのに執着しちゃってたの。それなら同腹の姉妹が同じ雄親をもっててもおかしくないわねえ」
女は、次に自分の交配期が来るまで箱庭には近づいてくれるなと、男を群れから追い出した。自分の知る限りの他の女に、彼を近づけさせたくなかったのだろう。
独占欲とでもいうのだろうか。交配期のたび性別すら変わるセイレーンには珍しく、彼女は終生番う交配相手を彼一人と定めてしまったのだ。だから相手にも、同じようにそれを望み、相手もまたそれに応えた。
女は卵の雄親について、箱庭の群れの中では、偶然出会ったはぐれのセイレーンであったとだけ告げ、当時の長老には生まれついての雄の子どもであると告白していたようだ。
そうして数か月の後に、無事卵は孵った。
生まれついての雄が産ませた子。限られた血を繋ぎ続ける箱庭に、他の地域からやって来て混ざり込んだ、別の群れの血を引いて生まれた子。群れの希望を背負った娘。それがビキだった。
「まさか二人目ができるなんて長老様もわからなかったでしょうし、他所の群れの雄親を持った子がビキ一人しかいないと思えば……、あの子に雄になってほしいってなっちゃったのかしら」
「ほんとうは声が落ち着くまで名前をもらえないはずなのに、ビキだけ名前が先に決まったのも、そういうことだったのね」
多くの希望を積み重ねて、彼女の名前は呼ばれ続けたはずだ。ふう、とどこか同情するかのように、女たちはため息を溢した。
「あんな風に期待されて、持ち上げられて、誰かに合わせなくても真っ直ぐ自分のままでいられるなら、ちゃんとした名前があるのってあたしは少しだけ羨ましかったけれど……」
「そうでもないものね。アタシ、そこまで面倒なのは嫌だわ」
「私も。だったら相手に合わせていた方がまだ楽よ」
三人の女たちは特別な血筋や親を持ったわけで無く、箱庭の中で与えられた仕事をこなしながら暮らし、通例通り声が安定した頃に長老から名をもらい受け、成獣し、交配期が来たらセイレーンの種を繋ぐ。それだけだった。他に数多くいた女たちがそうであったように。
しかし彼女たちは名前をもらいこれから自身を作りあげようとする前に、流行り病で群れと自由を失った。
病の後遺症があったため安く買われ、その先で受けた暴力でもまた体を傷つけられた。相手の好みに合わせて呼び名を変えられて、その都度、望まれるように彼女たちはかたちを変えて生きてきた。もう何が自分であったのかなど、彼女たちにはわからなくなっている。
今はフォロゴが与えた呼び名を名乗り、それを呼び合い、あの男が望むようにしているだけだ。ここは一方的な暴力や、数多くの抑圧が無いだけ生活するのに楽だというだけ。
そんな生き方しか知らぬ彼女たちにとって、ビキの背負う物の重さは想像もつかぬものだった。
「……あら、そういえば。その後彼はどうしたのだったかしら。……気が付いたらまたいなくなっていたけれど」
クロラが呟くと、フォスルは小さく笑みを浮かべて答えた。
「また、お母様が追い出したんですってよ。……そのあとタウゥが生まれて少しして病が広まり初めて、箱庭も壊れたから、追い出したことは良かったのかもしれないけれど」
ビキが成獣する少し前、母親の元から離れる準備をし始めた頃。約束通り女が次の交配期を迎えようとする頃だった。男はまた箱庭にやってきた。今度は隠れず、誰の目にも止まるように。
生まれついての雄であるため、期間を問わず女を選ぶことができる。交配期を迎えていない群れの女たちすらも色めきざわめく中、男は以前と同じようにビキとタウゥの母だけを選んだというのに。
女が新たに卵を産み落としてすぐだった。もうこの群れには近づいてくれるなと、そう言って。女は、群れから男を追いやった。
「なぜ追い出したのかしら。他の女を選ぶことが、そんなに嫌だったのかしら。そんなに誰かのものになるのが嫌なら、……殺して食べて、自分の一部にしてしまえば良かったのに」
サルハが少し揶揄うように、赤い唇をにたりと歪める笑みを浮かべてつぶやいた。その問いに、返された言葉はさらに密やかに、そこにいた三人の耳にしか届かぬ音でフォスルの唇から零れ落ちた。
「それはね。……ビキが、彼を欲してしまったからなんですって……」
「あら、まぁ……」
「あの子が」
父とは知らず、少女は男に恋心を抱いてしまった。
血を濃くしてしまえば忌子を成してしまう。群れの希望となるべき存在にそんなことをさせてはならないと思ったのか、それともたとえ自分の娘であろうと他人が恋慕の情を男に向けることが許せなかったのか。
どちらにせよ女はその時、ビキを残して男と共に群れを離れることもできたはずだった。しかしまだ生まれたばかりのタウゥを抱えた母には子を捨てて行くことができず、ビキが成獣する前に男を遠ざけて離別の道を選んだのだ。
「あの子が雄にならないのって、……本当はそんなこと、あの子自身が望んでいないからなのかもしれないわね。……恋した男を待つために、女の姿のままでいたいんだわ」
フォスルがため息を混ぜて艶っぽくつぶやいた。遠い異国の切ない恋歌のように。けれどその声に混ざる感情は僅かな憐憫のみである。
「せめて、男だけでも諦めてしまえば、あの子も楽だったでしょうにね」
フォスルの呟きに、クロルが呟く。
「そういうのを意固地、っていうんだったかしら」
「うふふ。……この場合は、したたか。というのかもしれないわよ」
サルハがくつくつと笑いながら返す。
「だってその話が今でもあの子の中で生きているなら。……フォロゴおじさまはずーっと、あの子に騙されているようなものじゃない」
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