第十五話『諦めきれぬもの』 3

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第十五話『諦めきれぬもの』 3

 いつか自分は雄に変わって女たちを選ぶ側になり、増えた子らを率いて群れを守る者になる。そう言われて育った少女が、その感情を抱くことは自分自身に対する否定を意味し、群れに対する反逆と取られかねないものだった。  だから誰にも言わずに、けれど、いつか想いを告げようと密やかに抱えていたけれど、その男を独占しようとした女によって彼は遠くへと追いやられた。少女はずっとそう信じて疑わず、その女……実の母が箱庭全体に広まった病にかかり、まだ成獣する前のタウゥに名を与えて死んだ後も、許しきれず、怨み続けて生きて来た。  時が過ぎ、彼はビキの父親でもあったのだと言うタウゥの言葉ですら疑ってかかった。もしそうであるならば、自分自身と、群れと、そしてさらに血に対しての罪をも背負うことになる。だから、信じたくは無かったのだ。それを信じて諦めることが怖くて、否定し続けた。  世の中には嘘というものがある。だからきっと、あれは自分を男から遠ざけようとする何かが作った、嘘なのだと。  群れが壊れて、密猟者に捕らえられ、売られて、表沙汰に出来ぬことで使われていた間も、彼女はずっと、心の奥底でその男の事を想って持ちこたえて来た。崩壊した群れにいなかったのだから、今でもどこかで生きていると。ならば、どこかで群れを作って、箱庭のようなところがあると風の噂に乗りさえすれば、あの男はきっと、自分を見つけてくれるだろうと。  名の持つ重圧をゆがめないまま、けれど恋心という名の野望も叶えるため、ビキはフォロゴの手を取った。彼が滅ぼしたいと言う国で新たな主を置けばいいのだと言う言葉に、希望を見た気がして。 「……」  ビキは静かに、薄暗い小さな部屋の中へと入り込む。  船の底にある小部屋は、他の部屋よりも温度が幾分か高く、湿度も高めだ。船底を叩く波の音が低く籠もって、まるでそこは大きな生き物の胎の中のような感覚になる。  小部屋の中には柔らかく保温性のある布や綿が敷き詰められた箱があり、その中には薄い青緑色をした卵がみっつ。一つは青が濃く、二つは白が強い。大きさは両手で抱えられるほど。  部屋の中が生き物の胎のように思えるのも無理はない。そこは卵から生まれる種族の者たちが使用する孵化室なのだ。  ビキは卵をそっと持ち上げ、ゆっくり揺らすと元へ戻すを繰り返す。指先に触れる熱は小さく鼓動を伝えてくる。もうすぐ孵ることを伝える青い卵を持ち上げたときだ。足音が部屋の外で止まった。 「ここにいたのかい、ビキ」 「……フォロゴおじさま」  小さな扉を開いて入ってきたフォロゴに、ビキは小さな声でどうしたのかと問いかけた。 「明日の朝、日の出と同時にルプコリスへ向かうよ、ビキ。……また何かと騒がしいことになるかと思うけれども……、お前はもう飛べるかい?」 「ええ……。もう大丈夫」  枯れたフォロゴの指先がビキの頬を撫でた。ビキは頷き、そっと卵を元に戻す。 「その子らが孵るのは、次の大満月の頃かな」  フォロゴはビキの背中を抱いてゆっくりと撫でると、囁くように尋ねる。ビキは抵抗もなく頭をフォロゴの肩に預けて答えた。 「そうね……たぶん。そのくらいだと思う」  青い月の満月を小満月、赤い月の満ちる時を大満月という。満月と新月の頃は命の芽吹くことが多い。ここに並ぶ卵たちが孵るのは、温め始めた日数からすると次の大満月の頃だろう。青い月の満ち欠けを二つほど繰り返せば、大満月だ。 「ならばそれまでに、あの王を、倒してしまおうな。……そしてこの子を、玉座に据えてやるのさ」  恍惚の表情でフォロゴが卵を優しく撫でた。 「おじさまが王様になるんじゃないの?」 「ああ。……ああ、私はもう王座に興味は無いんだよ。ビキ。私の望みは、王を斃すこと。……私の望みが叶った後で、その子が……お前と私の子が、その穴を埋めてくれるなら、それでいい、それで満足する。私は影役に徹しよう」  青みの強い卵は、数か月前にビキが産み落としたものだった。他の二つは同時期にタウゥが産んだ、おそらくは元コルナウス兵の誰かとの間にできた卵である。  船の中にいる男はフォロゴの他にはコルナウスの兵だった者のみ。フォロゴはビキの近くにだけは元コルナウスの者を近づけさせることは無かったため、船にいた誰もがそれはフォロゴの子だと信じて疑わなかった。事実、彼らの間には否定しきれぬ関係があったのだから。  それなのに。 「でも。でもおじさま。……この子の父親は、おじさまじゃないのよ? それでもいいの?」  産み落とした母親であるビキだけが否定する。 「うん?」 「この子の父親は、あのひとなの。あのひとは、あたしたちの近くにいて、あたしが新しい群れを作るのを待ってる。……あたしのことを、どこかから見ていてくれているんだって、……今でも、そう。きっと近くにいる。目の前に出て来られない何かがあるんだ、ああ、きっとそう。時が来るのを待っていてくれているのよ」  ビキが、口早に語り始めた。  もちろん卵は空ではない。確実にその中には新たな命が育っている。フォロゴは彼女の語る男が妄想の欠片なのだろうと思いつつ、口にはしなかった。言ったところで、この点に関しては、ビキは曲げることをしないのだ。  ビキの妄言の男が誰なのかフォロゴは一度彼女の口からきいていた。成獣する前に出会った男で、タウゥの父親なのだという。その男がどこかに生きているのなら、いつか再開したいのだとも。  その延長で、フォロゴは国盗りの話をした。国を取って、そこにセイレーンの国を作ればいずれ会えるのではないかと。軽く口にした言葉を聞いてから、ビキは積極的にフォロゴに従うようになったのだった。  理想の群れ、国の形を語り合うようになったのもそれからだった。フォロゴとビキの考え方は近かったのか、お互い否定し合うことも無く理想のかたちは膨れ上がった。お互い、久しく忘れていた楽しいという感情を思い出したほどだ。  ただ一点、噛みあわないのがこの想い人が話題に上がった時だった。もう生きてはいないのではないかと、一度だけ口にしたことがある。その時のビキは烈火のごとく怒りだし、しばらく手が付けられないほど暴れたのだ。  否定すればビキの機嫌を損ねてしまう。だからこの話題に関してフォロゴはビキの妄言に合わせることにしていた。 「……わかったよ。わかった。その子の父親は、お前の言う男ということにしておこう」 「おじさま、信じてないでしょう、……あたしは嘘なんかついてない。この子は……」 「お前が誰を想っていようが、構わないよ、……私は」  はぐらかし、フォロゴはもう一度ビキの背を撫でた。  見張りの付いた船に、他所から何者かが入り込むことなどない。停泊しているときでさえ、彼女たちが外へ出ることを許さなかったし、ビキを置いてフォロゴが船から離れたことは無い。  接触することもできぬ、生きているかどうかすらわからぬ男を想い、語る彼女の姿を見るのは複雑な気持ちであったが、フォロゴは話を切ると本題であった言葉をもう一度告げて部屋の扉に手をかけた。 「とにかく、明日は早いから。眠れるなら、早めに眠っておくんだよ」 「ええ」  ひとり残されたビキは、静かに閉じた扉をしばらく眺めていたあと、ゆるりと自分が産み落とした卵を撫でて小さくつぶやいた。 「おじさまは何度言ってもわかってくれない。…………あたしに、あたしだけは、混ざり子なんか産めるわけがないって言っているのに……」  か細く落ちた声は冷たく、その音はどこか哀しさを含んでいた。
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