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第十六話『夜明け前』 1
周囲に薄く紅色の光を降り注いでいた赤い月が沈むと、姿を隠されていた星たちの煌めきと青い月の落とすほのかな明かりが、残された僅かな夜の中に光を放ち始めた。
日の出前の青が包む時間、眼下にはノウォー川の支流のひとつが流れている。
深く幅広の谷の底では、水位を増した川面が波打ち際の木々を叩いている音が響き渡り、時折星の欠片のような水しぶきが光って見える。谷川沿いの山肌にちらちらと見えるのは一足早く目を覚ました漁村の明かりだろう。
谷の周囲は木々に覆われ、ところどころに塔のような岩の柱がそびえ立っている。リーパルゥス国境にある奇岩群ほどではないが、獣の牙か角を思わせるものだ。
その中に、谷の上部に作られた道とつながる岩がいくつかある。牙や角の岩のように直立したものではなく、上部が平たく整えられて鳥類や鳥獣類の者たちに離着陸用の道として使われているものだ。谷の両岸を翼で渡す橋の橋脚とも例えられ、そのような岩は『道無き橋』と呼ばれていた。
「船の操舵師とは繋ぎが取れたんですか?」
谷の中に複数ある道無き橋のひとつに、谷底を見下ろす影があった。薄闇の中の月明かりを受けて、さらに青白さを増した白銀の毛並みが小さく問いかける。
見下ろす先には風待ちなのか漁船なのかいくつかの船が停留していて、視線はそのうちのひとつ、遠い異国の型をした船に向けられたままだ。
「直接会話ができたわけではありませんがね。……合図を送り合って、こちらが近日中に動くことは伝えられたと報告を受けています」
問いに、傍らに立つ銀毛の狼の男が答えた。彼もまた赤い月が沈んでからの薄明かりの中、その気並みに複雑な色味を混ぜ込んでいた。青紫の火の粉のような仄かな輝きが、毛先に揺れている。
「……ならば、後は動くだけ、か」
「そうですね」
夜明けと同時、彼らは動く。アルグにとっては長年追い続けた者を捕らえるために、ロウやセイにしてみれば、他国の厄介事を片付けさせるために。
様々な意味を込めたふたつのため息が谷底へと静かに落ちた。
夜明けまであと一刻という頃合いだろうか。谷底へ視線を落とす二人の背後、道無き橋に通じる小道を見張っていた濡れ羽色が小さく二人へと声を向けた。
「ロウ、アルグ、誰か来る」
その声にロウは視線を小道へと向け、アルグがふっと僅かに顔を上げた。ロウは視覚で、アルグは風に乗って感じる僅かな匂いをかぎ取っているのだ。
三人のいる道無き橋へ向かう小道には、小さな明かりがいくつも見え隠れしつつ群れを成していた。淡い星月の光を集めて光るそれらは、狼の目だ。
「狼か……」
「間違いない。コルナウスの兵たちです。……準備ができたようだ」
「アルグ。先に言ってた通り、先鋒隊に一応、『声』をかけておきたい。……一度ここへ集めてもらえますか」
「はい」
アルグは頷き、セイの見張っている小道の方へと目を向ける。そこへ獣型を取る一頭の狼が現れた。灰色の狼に相応しく黒と銀の入り混じる毛並み。群れを背後にしつつ一人で出てきたというところを見るに、先鋒隊を率いる隊長なのだろう。
「我ら、準備が整いまして御座います、陛下」
聞こえた声は女のものだ。
「わかった。……出陣前に、一度全員ここへ集まるように伝えてくれ」
「はっ」
狼はアルグの言葉に頷いて一度姿を消すと、すぐに群れを引き連れて戻ってきた。
闇に溶けた獣たちが砂を踏みつける爪音が止まってようやく、その場に集まった者たちが人型へと変わっていった。ずらりと並ぶ人数は三十と少し。狼の部隊とはいうものの、中には純粋な狼属ではない者も含まれていた。
「第一部隊。先鋒隊はこれがすべてです」
アルグの言葉に、ロウが頷いた。
「では、互いに作戦の最終確認をするとしよう」
集まった狼たちの前に立つと、両脇にいるセイとアルグへと目配せをする。
「まず、俺たちの方から。……船が動き出すのを確認してから、俺は別方向から、リーパルゥスの者としてあの船を探しに出る。気づかれないような距離をもって飛ぶが、俺が探しているとあっちが気づいて警戒し始めれば上々だな。そして、川の水流が件の谷に差し掛かるころで接触する。セイは谷近くで待機。向こうのセイレーンが予定より早く飛び出してくるようなら合図を送る。あの娘が出て来たらお前が船の動きに合わせて谷に誘い込め」
「そこで落とした方が良くないか?」
とどめを刺してもいいかと問うセイに、ロウは眉間にしわを刻んで答えた。
「あの娘が声を放つ前に、一撃で、確実にとどめを刺せるっていうなら任せる。ただし、仕留め損ねて声を上げられたら厄介だぞ。あの娘の声は残響がひどい。声の守りを敷いても影響がないとは言い切れん。一度声が放たれたら、いくら同属の声を使ったところで無かったことにはできないからな」
その場にいるのは、声に耐性を持たぬ者の方が多い。彼らに対し、声の影響や被害が及ばぬようにするのが自分たちの呼ばれた理由なのだからと、ロウは念を押す。
「お前は空中で、触れもしない女の首を噛み砕けるか? 蹴爪で背中引き裂けば良いってもんじゃないんだぞ」
「……」
タウゥの時と同じようにはいかないと釘を刺され、セイは押し黙る。視界の隅でその姿を見やり、ロウはため息を吐くように続けた。
「……それから、船が谷に着いたら一気にセイレーンの声を封じ……、いや、正確に言えば声に耐性を持たぬ者の耳を『塞ぐ』。そして最終的には、あの船にいるセイレーンは殲滅させる予定だ。セイも、その覚悟はしといてくれよ」
お前の同種族を滅ぼすことになるのだと、言葉に含まれる感情に怪訝な顔をしつつ、セイは短く頷いた。
「ああ。同種族だからなんだっていうんだ。俺が同情して、やっぱり命は助けてくれ、とでも言うと思ってるのか? お前は」
「ここまで来て、そんなことは俺も思わん」
吐き出されるセイの怒りを含む声に、ロウはため息で返した。
「ただ……、お前には、俺の声に同調しないでもらいたいだけさ」
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