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第十六話『夜明け前』 3
獣人を、理性無き獣、怪物へと変貌させる方法がある。
生きるためにぎりぎりの僅かな食事しか与えぬこと。
睡眠時間を奪うこと。行動を極端に制限させること。
常に恐怖を与え続けること。
疲弊させ、充分に回復させぬまま意味のない行動をひたすらとらせる事。
相手との同意無きまま、無理強いをさせ子を増やそうとすること……。
心を壊し、身体を痛めつけ、理性を消失させ、狂わせていくそれらの行いは、大陸のどの国であっても法に触れ、たとえ戦で捕らえた敵の捕虜であっても行ってはならず、忌むべき事、理性ある者として恥ずべきことであるとされている。
もちろん、表向きの話ではあるが。
どんなに豊かな国であっても、戦から遠ざかった小さな村であっても、それらは普段の生活の中に僅かな影として存在しているものだった。
小さな影ならば振り払うこともできようが、より強く、逃げ場もなく与えられる環境下にあれば、どんなに屈強な者であっても、どんなに理知的な者であっても、いずれ壊れていくことが知られている。壊れ、自我を失った怪物となり果てた者の先にあるのは、周囲を巻き込むような破滅しかない。
その行為の果てに生み出された怪物は多くの場合、進んで異種同種問わず獣人の血肉を喰らうようになった。それを抑制して食用の獣の肉を与えても、彼らの口はもう獣人の肉以外受け付けなくなることが広く知られていた。そして、怪物へと変貌し、そこから正常の獣人に戻ったという者の数はあまりに少ないということも。
殺しを行った者が、血の匂いに負けて殺した相手を喰らうことは稀にある話ではある。しかし今回、川で襲われ消息不明になった者たちの行く末は、襲ったセイレーンたちの餌になっているのだろうと、ロウとセイ、アルグは結論付けていた。
怪物に堕ちたものは殺した結果食らうのではない。食らうために殺す。荒ぶる欲求を満たすために狩りを行うのだ。獣らしいと言えばそうなる話だが、理性持つ獣人の社会にあれば、怪物は理性を無くした危険な生き物、ひとの器の中に宿った厄災となったといえよう。
「人を進んで襲って喰らうようになったものは……、人の世にはもう戻れん。いや、戻してはならん。……違うか?」
ロウの呟きに、周囲はさらにしんと静まり返る。
その沈黙の中に、ぽつりと落とされた声があった。
「……理屈なんてどうでもいい。狂った群れは、……何も残さず潰したほうが互いのためだ」
月も星も無い夜の暗さを身に纏った、冷たい怒りが含まれた声だった。
「セイ、止めろ」
ちらりと、セイの言葉を止めようとするロウへ目を向けた後、セイはコルナウスの兵たちに向かい合った。
「……あんたらの中にそれでもまだ救える可能性があるとかどこかで思ってるやつがいるなら、はっきり言うぞ。……その狂人を、ましてセイレーンなんていう種族の狂人を、俺たちの声に耐性のないやつらが受け入れられると思うな。いざってときは躊躇うな。俺たちはその隙をついて、……お前たちの仲間を殺したんだ、忘れたのか?」
「……っ」
セイの言葉に、ざわりとコルナウスたちの毛が逆立つ。
「最初から最善の策が見えている者と、現状を悪化させない事がすべてと考える者とでは救いの形は絶対に交わらない。あいつらは後者だ、……俺たちが、……そうだったように」
四年前。傷つき恐怖の中にあったセイの群れに、何とか救ってやろうと、優しく柔らかく、差し伸べられる手があった。傷つける意図もなく、もっと安心して暮らせる場所を与えてやろうという、攻撃心の無いはずの手であった。
だがそれは、当時の彼らからすれば密猟者の手と大差ない。悪意だろうと善意だろうと、向かってくる相手がどんな種族でどんな姿をしていようと。彼らに対し恐怖を与えて来る者たちであることには変わりなかったのだ。
初めにセイの群れに近づいて来た狼の兵たちは、殺さぬ程度で捕らえられればそれでいいという密猟者を相手にするより容易かった。何しろ彼らは、何とか無傷でこちらを受け入れようとするために、隙だらけで近づいて来たのだから。
セイの声は突き付けてくる。
「セイレーンは大して賢い種じゃないけど、あんたらが思うほど弱くない。……人の味覚えた奴らだ、殺意向けなきゃ獲物にされるぞ。あいつらに、あんたらの考える救いの手とやらは通用しない。綺麗事じゃ片付かない」
狩られたいのなら止めないが、と、セイは言葉に重ねて脅しをかけた。
「セイ!」
ロウがそれ以上を語るなと止めさせる。
言葉に素直に従って、セイは口を閉じた。ふいと逸らされた視線と言葉を、困ったようにアルグが繋ぐ。
「……セイ君。それ以上脅してくれるな。それ以上言えば君に対する恐怖心がこちらに生まれてしまう。……けれど、そうだな。君の伝えたい事は肝に銘じておこう。……さてロウ、もうすぐ夜明けだ。何かするなら、急いでください」
「ああ、わかった」
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