第十七話『苦悩と幸福』 1

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第十七話『苦悩と幸福』 1

 日の出と同時、谷には狼の遠吠えが遠くまで響き渡った。狩りを始めることを告げるその声に、周囲にいた小さな獣たちは怯えて隠れ、気配を消していく。  声が向けられた獲物、異国の型をした船は急いで帆を張り、谷からノウォー川の本流へと向かって舵を切った。  だが、広範囲で散らばるコルナウスが陸路と水路から行く手を阻み、さらに船の操舵師が逃げの動きを取るふりをしつつ航路を僅かに変えていくと、船は遡って来る海の力と風の流れに飲まれて行き先を変えていった。 「操舵不能! このまま流れに任せるしかない。無理をしたら船が壊れる!」  操舵室から聞こえた叫び声は、船内はもちろん、近くを走り続けていた狼たちの耳にも届いた。予定通り船が動いたという報告として。  ルプコリスへと向かうはずだった船は向きを変え、渦を巻いた川の流れに捕らえられた。ぐらりと大きく揺れた船が狼たちに追われるままノウォー川の本流から逸れ、暗くて細い谷間へと引きずり込まれるようにして流れて行った。  周囲を取り巻くコルナウスの兵たちの数が増え、狼たちの吠えたてる声がさらに近くに聞こえ始めた頃。船の中では焦りと混乱を表情に浮かべたフォロゴが爪を噛んで唸っていた。 「おのれ……、おのれ忌々しいコルナウスども……。この期に及んでまだ私を捕らえようとするか」  愚かな者たちだと、吐き出す声は震えていた。 「ああ、ビキ。今すぐ飛べるかい。お前の声で、あの狼どもを潰してきておくれ。お嬢さんたちの声は風向きの具合かどういうわけか届かなくてね。……そうだ、ここであいつらを全部潰してしまえたら、……ルプコリスを落とすのが容易くなるはずだ!」  フォロゴの周りを囲む女たちの中で、少しだけ表情を曇らせているビキに向かいフォロゴは声と手を向けた。ビキはその手を取ると、小さな間を置いて頷いて見せる。 「いいわ……、飛んであげる」 「ああ、ああ。ありがとう、ビキ」  うんうんと肯き、船室から出て行った背中を見送ると、フォロゴは別の女たちにも声をかけた。 「お嬢さんたちも。……あの混ざり子たちを外に出してやってくれるかな」 「あら、もう出してしまうの」 「ルプコリス……、というところに付いたら遊ばせるって、話じゃなかった?」 「おじさまがいいのなら、わたしたちは別に構わないけれど」  口々に溢す女たちに、フォロゴが大きな鍵を手渡しながら言った。 「そろそろ、君たちもあの子たちも、お腹が空いた頃合いじゃないかね」  あれは食べてもいいものだと枯れた指先が窓の外へと向いた。周囲を取り囲み吠えたてる狼たちの群れを指して笑みを見せた男に、女たちはにっこりと、嬉しそうに笑みを返す。 「狼さんはあんまり美味しくないんだけれど……、わかったわ」 「そうね、あの子たち、ここ数日食べていないものね」 「あの子たちなら、好き嫌いなく、たくさん食べてくれるわ」  うふふと艶のある笑いを浮かべながら女たちは部屋を出て行った。  薄暗い船室のさらに奥、大きな扉の鍵を開けると、中からは生臭い臭気と共に言葉を紡がぬ声が彼女たちを出迎えた。薄明かりに照らされる室内の床は赤黒く、何かが動いた拍子に転がってきたのはまだ血脂の付いている白い欠片だった。 「みんな、出ていらっしゃいな」  部屋の中に声をかけると、薄暗い部屋の中で影が動いた。声に返されたのは唸り声。薄明かりに照らされて女たちの前に立ち上がったのは、獣人が取る半獣型のさらに獣寄りの姿。 「お腹が空いたでしょう?」 「ご飯の時間にしましょうね」  女たちの声に、影が笑う。  部屋に差し込む明かりの中、人の姿を留めることもできなくなった怪物がそこにいた。
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