第十七話『苦悩と幸福』 2

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第十七話『苦悩と幸福』 2

 操舵の利かぬ船は流れに乗ったまま、狼たちが待つ谷に向かって行く。  それを船からは悟られぬ位置から見張っていたロウの眼が、黒い翼の広がるのを確認した。谷を吹く風を捕らえて飛び立った翼は、渓谷の砦が襲撃された際に見た女、ビキのものだ。 「……やはり先に出て来たか。それなら……」  二、三度羽ばたき、ロウは空に爪を立て駆け上る。充分な高さを取ると、ロウはビキよりさらに上空で一つ大きな輪を描いて飛んだ。青に染まった空の上に青白く長い尾が優雅に舞う。 「セイ、少しの間頼むぞ……」  それがロウがあらかじめ決めていた、船からセイレーンが飛び立ったという合図だった。  ロウの合図に気づいた狼の一軍が声を上げ、遠吠えで仲間に知らせ始める。 「合図だ、伝令! 狼煙を上げよ!」  コルナウスで『狼煙』と呼ばれる遠吠えは、歌い鳥の使う声と似て非なるもの。今は他種族間で言語は統一され、使われることのなくなった狼たちの種族間言語を使い、遠くの仲間へと声を届ける。狼属の耳に届けば他者にもその言葉を拾うことはできるが、コルナウスたちはさらにそれを暗号に変えて使っていた。  何をどう伝えているのかはコルナウスの者にしかわからない。谷間に遠吠えが数回響き渡ると、狼たちが身構えて動きを止めた。視線は上空を舞う白銀から、濡れ羽色の翼へ。  ビキは周囲に散らばる狼たちの視線に気づくと、声を練るため喉に空気を吸い込んだ。従わせるのも良いが、一思いに全員谷底へ落としてしまおうかと、強い殺意を声に乗せて吐き出す寸前だった。  川の流れが向かう先、船が飲み込まれようとしている薄暗く開いた谷の口から、夜の風が吹き出してきたかのように飛び出て来た翼があった。  ビキに向かって飛び出してきた疾風は、やめろ、と声を上げる。肌にびりびりと突き刺さる声は、同属の放つ声だ。 「お前はあの時の……。そうか、やっぱりあたしたちの仲間になる気になったんだな。いいぞ、歓迎する! これから一緒にあの狼たちを……」  喜びを混ぜ込むビキの声に、セイはその歓喜を弾き飛ばすように答えた。 「冗談じゃない。お前たちを探しに来たに決まってるだろ。……お前たちは、砦を襲った。そんな群れを放置できない。俺は、お前たちをここで壊滅させるために来た」  冷たく返された声に、喜びは一瞬で怒りに変わる。 「な、に……、ふざけたことを言うな! あたしたちが何をしたというんだ! あたしたちは仲間を探しに行っただけ。仲間がいるなんて噂を流してた奴が悪いんじゃないか」 「噂はどうであれ、お前は俺たちの縄張りに向かって攻撃を仕掛けてきたんだ。その報いを受けて当然だろう」 「知らない、そんなこと。あたしたちに、お前たちのやりかたを押し付けてくるな!」 「国に属さない流れ者でも、そのくらいのことはわきまえてる。……お前は知らなかったかもしれないが、起きた事を他人のせいにするな、卑怯者」 「なんだと!」  何度も旋回を繰り返しながら言葉をかけ、セイは怒りの熱で視野の狭まっているビキの意識を、船から自分へと向けさせて遠ざけさせた。じわじわと怒りを高めていくビキに対し、セイは余裕を見せてさらに言い放つ。 「ああ、じきにあいつもここへ来るぞ。お前を追い払った砦のヌシだ。あいつが来たらお前たちは完全に終わりだな」 「なっ……」  それはビキの中に恐怖を呼び起こすに十分すぎる言葉だった。  あの時受けたロウの放ったリューゴの影響はすでに消えていたはずだが、圧倒的な力量差を見せつけられてしまった後では、獣の本能が拒絶を訴えるのだ。  ビキの中には逃げようとする感情が高まって行く。向かってくる同種族の翼の後ろに銀翼が見えた気がして、さらに恐怖がビキの背を強張らせた。  無意識に、ビキの翼は逃げを取った。 「逃げるのか? それでもいいぞ。逃げるならひとりで逃げるといい。どちらにせよお前の群れはここで滅ぶことになる」  セイが冷たく言い放つ。 「そうしたほうが、お前の群れは幸せかもしれないな」  背中を見せて飛び続けるビキの後ろから、セイは追いかけつつ声をかけた。 「幸せ?」  ぐるりと、旋回してビキが逃げの態勢を解いた。声に強い怒りが混ざっている。群れを導けと呪いの名を戴き育ったビキに対し、ビキがいなくなり、さらに群れが滅びることのほうが良い、などと言うことは侮辱以外の何物でもないことだろう。 「死んで滅びることが幸せだと言うのか! あたしが群れを守っているんだから、あいつらは不幸じゃない、そうでなきゃならないんだ! 今はまだ、我慢しなきゃならないことが、たくさんあったとしても! いつかは……本当にッ」  何も知らないくせに。血の味の混ざるような声だった。ぶつけられたセイは瞼の上に少しだけ不快感を乗せて、声を振り払う。 「いいや、能のない長がいる群れは、それだけで不幸だと言ってるんだ」  長い間、ビキが苦労して守り抜いて来た、数人の小さな群れだとしても。その数人を守り続ける苦労と、苦痛と、言い表せる言葉を持たぬ数多の感情を、その一言で否定され、ビキはさらに怒りを強めた。 「あたしに、群れを治める能が無いって言いたいのか! 何を偉そうに! ずっと、ずっとあたしが、あいつらを率いてきた……! じゃなかったらあいつらみんな、セイレーンだってこと事を忘れる生き方をしなきゃならなかったんだぞ! そんな最悪なことが、あたしの群れにあってたまるものか!」  ばさり、と大きく羽ばたいて、ビキは怒りと牙をむき出しにしてセイへと突進する。  セイはそれをかわし、頃合いだと見て件の谷へと向かって翼を進めて行った。  その後ろを怒りで視野を狭くして殺意をさらに強くしたビキが続いて行く。視界の隅に彼女の姿を捕らえると、セイは小さく溢しながら速度を上げた。 「最悪なこと、か……。そこまで俺たちの血は、重要なものなのかな……」
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