第十七話『苦悩と幸福』 3

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第十七話『苦悩と幸福』 3

 他の種族に混ざり、セイレーンであることを忘れて生きる。言葉で言うには簡単なその生き方を自分の群れの女たちに選ばせてやることは、しかし、セイにはできなかったことだった。そんな選択肢があること自体、あの時のセイにはわからなかったのだ。今のビキがそうであるように。  ロウやアルグであるならば数多考え付いたであろう選択の中で、セイはただひたすら新しい群れを探して、そこにたどり着くことだけを答えとして考えていた。それしか与えられた答えは無く、群れの女たちもまた、それ以外の答えを知らなかった。  たどりついた渓谷の周辺国に助けを求めることができなたら。少しずつ群れを別け、散り散りに行動させることができたなら。もしくは他種族に混ざり、セイレーンであることを捨てろと命じることができたなら。あの女たちは狂い出さずに済んだのに。  群れの女たちを、密猟者が扱うようにはしてくれるなと、これ以上の不幸に晒してくれるなと、信用に足る国の王か何かの前に出て声を上げれば良かったのに。  それが、あの時の『最善の選択』だったはず。それができてようやく、群れを率いる者だったと言えるのではないだろうか。セイは思う。思えるようになってしまった。  今思ったところで、あの頃のセイには何一つ取ることはできなかった選択だけれど。  セイの群れの女たちは数年に一度の交配期を迎えて苛立っていた。そしてさらに、セイがいることで状況は悪化していた。生まれついての雄が群れの女に与える影響が、彼女たちを苦しめていたのだ。  思えばそれが狂化の始まりであったのだろう。  おそらくは雄の個体が有する『これ以上血を濃くしないようにと働く何かの力』で、女たちは雄に変わることも、群れの中で子を成すこともできなくなっていたのだ。それでも訪れた交配期のやり場のない熱と苛立ちを、群れ以外を信じることのできなくなった女たちは、唯一の雄であるセイに対してぶつけてくるようになっていた。セイが相手では子はできない。わかっていてなお、女たちはそれを止めようとしなかった。  ――どんなに飛んでも、新しい群れなんて見つかりゃしないじゃないか。  ――お前が生まれなければ、こんなことにはならなかったのに。  ――その場しのぎにしかできないなんて、飛ぶ以外だと本当に役立たずね。お前は。  ――新しい群れも、子も得られないまま、あんたはこのままあたしたちを死なせるの。  怒鳴り散らして、怒りと熱とをぶつけて、一時的な落ち着きを得ていた女たちだったけれど、それも僅かな間だけだった。交配期が過ぎると、次第にその暴力性は人を襲って喰らうという行為に変化したのだ。  結果、あの群れは滅びてしまった。彼女たちの怒りが、苦しみが、一時でも治まるなら、その怒りの原因である自分が耐えていれば済むことと、罪を背負い、罰を受けるような気持ちでいた自分のせいなのだろう。そう気づいたのは、彼が彼のいた群れを滅ぼした男から、セイと名をもらった後の事だった。  ロウやトキノ、アルグの事を知れば知るほどに、もしもあの時こうしていたらという事ばかりが新たに生まれ出る。あのころ見えもしなかった最善の道が、時を経るごとに見えてくる。それは群れを率いていたときよりもずっと、苦しいことだった。  救えるはずの道が見えても、救えたはずの者はもういないのだから。  群れの女たちがそれほどまでに大事なものだったかと問われれば、そんなものでは無かったとセイは答えるだろう。良いと思えた記憶はほとんどなく、消えることない傷ばかりを残した女たちだけれど。  セイが助けられた後に得た幸福感や平穏を、感じ取ればとるほどに、それらをあの頃彼女たちに与えることができたのならば、彼女たちもまたそれほどまでに悪い記憶にならずに済んだはずなのにと思うのだ。  そして、それが何故できなかったのか。それは自分が無能だったからにほかならぬと、後悔し続けることとなる。  そして一方。あの群れの女たちは、更なる未知の苦しみに触れることなく解放された。それはあの群れにとって救いであったはずだと、セイは思っていた。  だからこそ、言うのだ。 「……あいつらも、救って(ころして)やってくれ。……ロウ」  狭い谷を吹き抜ける風に乗って逃げ場を無くした船と共に、セイがビキを引き連れて谷へと入り込む。谷にはセイがビキを引き留めている間に指定の位置に配置についた狼たちと、彼らを従えた青紫の火の粉を纏う狼と、薄暗い中一等目を引く白銀の獣の姿があった。  白銀の獣の横をすり抜けながら、囁くようにしてセイは告げる。 「……頼む」  通り過ぎる間際、まかせておけと短く返されたのが聞こえて、セイは羽ばたき速度を上げると一気に谷の奥へと向かう風に乗り、その勢いで上空まで登っていった。  陽の光が明るく照らす青い空の下、まだ夜の影を残す谷から飛び出た翼を合図に、白銀の獣が大きく声を張った。
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