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第十七話『苦悩と幸福』 4
――灰の狼には蜜蝋を。仇なすものには鋼の檻を!
雷鳴の如く響く咆哮は谷中に余韻を残して広がった。
びりびりと強く肌に感じる声に、コルナウスの兵たちも、そして船の中にいた者も、ぶわりと毛を逆立てた。
響いた声はロウの張り巡らせた結界だ。国を守護する王たちが自国の領地に敷くように、その場で一番強い獣が自分であると主張する。ロウが味方と認識した者たちには加護と守護を、敵視したものには捕らえる意思と強い殺意を。圧倒的な気配を以て、ロウはその狭い谷間を一時的に自分の支配下とした。
声を聞き、流されるまま谷へ入り込んだ船の中にいたフォロゴも流石に気づいていただろう。
「あの忌々しいフェンリルの子め……、コルナウスでは手に負えぬと見て、他人に頼りおったか!」
セイレーンの群れがあるという噂に騙され向かった辺境の国の砦。タウゥは落とされ、ビキが怯えて帰ってきたあの場所に向かわせたのは、セイレーンの声が通用しない相手と対峙させるためと思っていたが。そうではない。
最初から彼らは手を組んでいた。砦に誘い込ませたのは、砦を守る彼らを表向きに出撃させる理由を作るためだ。
どうして早く気づかなかったか。フォロゴはぶつけようもない怒りを荒々しい足音に変える。
「所詮は卑しい者の考えること。は、ははは、それなら私が考え付くはずもない。そんな恥さらしなことを、国の王ができるわけがないからな!」
そう口にしながらも、ロウの敷いた結界のせいだろうか、フォロゴの声は震えはじめていた。小さく、フォロゴの中に怖れが滲み出したのだ。
「もう逃げ場はないぞ。諦めて出て来いフォロゴ! 貴様の犯した罪を今こそ我らが裁いてくれる!」
「……!」
アルグが船に向けて警告を飛ばした。そこで初めてフォロゴは成長したアルグの声を聞いた。想像していたよりもはるかに強い威嚇の気配。フォロゴの知る先王とは比べ物にならないほどの気迫に、ますますフォロゴの毛が逆立った。耳はぺたりと後ろを向いて、枯れた草色の尻尾は、気を抜くと両足の隙間へ滑り込みそうになる。
滲む恐怖はさらに色を濃くしていく。降伏すればすべてが水の泡だ。ここまで来て引けるものかと気を張りつつフォロゴは甲板に出て行った。
怖れを振り払うかのように何度か頭を横に振って、先を見据える。
視線の先では、白銀の見たことも無い獣がこちらを睨んでいた。傍らにいるのが、記憶の中では幼かった狼の王子の、そのひとりか。
「何の種族だかは知らんが奇妙なやつを味方につけおって……!」
「おじさま……!」
そこへ船を追うようにして谷へ入り込んできたビキが、ロウの姿を見つけるや否や慌てて船に降りてきた。フォロゴの前で明らかな怯えと恐怖を見せている。
「おじさま、あいつは……ッ」
「ビキ。あぁ……、お前はあの白い獣が怖いのだね……、よし、よし、……いいかい。お前はあの黒い翼を追いかけるんだ。あれもセイレーンなら、あちらの戦力だろう。お前の声で落としてしまえ」
フォロゴは空を指さす。上空ではセイが谷から抜け出てぐるりと大きく旋回し、こちらへ向き直すところであった。
「……おじさま」
「そんなに怯えていたのでは戦えないだろう。……早く行きなさい、足手まといになる」
言葉に従い、頷いたビキはまた翼を広げて飛び立っていく。あえてそれを追おうとする者は居なかった。ロウも視線を僅かに動かし見送って、ビキの翼が谷から抜け出る寸前、また一つ警告の声を上げた。
「船の者へ告げる! 我が国の砦を襲撃した罪と現状を理解し、降伏するつもりがあるなら無抵抗にて応えよ。温情の必要なく、抗戦するというならば、我らは容赦しない」
谷に集まった狼たちと、ロウの黄昏時の空色は返答を待った。しんと静まる谷の中に響いたのは男の嗤う声だった。
「は、はは、……ははは! 無抵抗だと⁉ 笑わせる。ここまできて、易々従ってなるものか!」
だん。とフォロゴは大きく床を踏み鳴らす。はずみで床から飛び出た取っ手を引いて、フォロゴは床下に続く階段から怪物を外へと呼びだした。
一人は獅子、一人は大きな牙を持つ猪だろうか。そしてもう一人は長い見事な蛇の尾を持った鳥獣類。
どれもみな乾いた血のような黒い毛並み。赤い眼と赤い舌を見せ、死臭と飢えを纏っていた。その怪物たちの大きな身体の足元には、小さな黒髪の女たちが付き添っている。彼女たちもまた怪物同様、どこか死臭の漂う視線で、狼たちとロウへと目を向けていた。にたりと笑う口元は、蠱惑的に艶めく。
「貴様ら皆まとめて、ここで怪物どもに食われて死ぬがいい!」
フォロゴの上げた声が合図だった。谷に満ちた殺意が弾け、狭い谷の中は戦の気配に包まれた。
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