第十八話『殲滅の果て』 3

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第十八話『殲滅の果て』 3

 谷の上へ登って行ったセイに追いつこうと、圧し来る風を何とか掴んで空に上がろうとしていたビキが血の匂いに気づいて喉の奥で悲鳴を上げた。 「!」  遠くからでもわかる。船の甲板が血の海に変わっていた。その赤色は暴れる怪物たちが狼を屠った痕跡ではなく、その怪物たちの足元に倒れた女たちから噴き出したものだ。 「あいつらが、あいつらが殺された……っあたしの群れが、あたしの、……っ」  ビキは大きく羽ばたいて上空へ向かうことをあきらめた。フォロゴがまだ高い位置にいるセイを追えと言って、白い獣のいる場所から逃がしてくれたのはわかっていたけれど、ビキは恐怖よりもはるかに勝る感情に駆られたのだ。  血の海の中、白い獣が吠えた。びりびりと肌に障る声が大きく響くと、怪物たちが恐怖にざわつき動きが止まる。時たま言うことを聞かなくなる怪物たちをビキが抑えてきたようなやり方だった。  白い獣が放った声の効果はビキの放つもの以上の強さがある。声と獣の気配を意識的に強めてぶつけられた怪物たちは動きを止められ、その隙に一気に飛びかかった狼たちによって押さえられ、あっという間に倒された。 「まさかそんな、あの怪物どもまで……。あいつか、あいつが、あたしの群れを!」  ビキが急降下して船を目指す。それを、さらに上空からセイが後ろから追いかけた。  セイは船上にいる者たちに向けて、ビキがそちらへ向かったと声を放つ。その声にロウが気付いて身構えた。  ロウと狼たちの目の前に、黒い影が二つ、突風が吹き下ろすかのように降りて来た。  一つは転がり込むようにして甲板に滑り落ち、もう一つは、音もなくつま先を置く。黒い翼は一瞬で人型へと戻り、双方違った目線を、鮮血を浴びて白銀の毛並みを血の色に染めたロウへと向けた。 「ロウ……」 「おまえ、……っ、なんてことを」  怒りに震えるビキの声がロウに刺さる。相性が悪いと感じていた彼女の声は、ロウがロウとしてこの地に足を付いてなお、変化することなく耳に届いた。  癖のある残響に乗った、郷愁と群れへの責任感。そして高すぎる理想に対する欲求と、それを妨害する者に向けた強い殺意。  まるで赤く焼けた鉄のような感情だった。触れたら深い火傷を負わせる声を向けて、ビキはロウに更なる殺意を向ける。 「何てことをしてくれた! これじゃあ、あたしの群れが、あたしの群れが……ッ」 「そいつが言っていなかったか。俺たちの目的は、お前の群れを壊すことだと」  怒りと殺意を高熱で燃やし、ロウに対する恐れを忘れたビキに向かい、ロウは低く静かに威嚇と警告を含めて声を発した。氷のように冷えた声は、それだけで周囲に重く威圧感を敷き詰める。  一歩、ロウが踏み込んだ。  黄昏時の空色は普段の温厚さを消して、ただ冷たく、凍てつく真冬の夜空のように死への恐怖を掻きたてる。 「何で、……あたしに、何の恨みがあって」  ビキが震える声で問う。  ロウは感情の波も立てずに答えた。 「これはお前に対する恨みじゃない、恨みじゃあないが、俺にも守らねばならぬものがある」  また一歩、ロウがビキへと向かって足を進めた。さらに増す威圧感に、ビキの足も無意識のうちに後ろへ下がる。 「お前が、お前の群れを何とかして守ろうとしていたようにな」  ロウの声に力が籠もった。 「……だが、お前はもう止めて良い頃合いじゃないか。お前は充分、やってきただろ」  ロウの告げた言葉には強い力が編み込まれていた。砦のときの鋭さは無いにしろ、その声がリューゴであることは間違いない。  耳に届く温度はぬるま湯のそれ。一度深く息を吸って吐き出せば、全身の力が抜け出てしまうほどの、重たくのしかかる多幸感。瞼は閉じ、もう二度と立ち上がれなくなりそうなほどの深い眠りに落ちる間際に似た感覚。  背負ったものの重圧から逃げられる。今なら逃げていい。一人戦うのはもう止めてもいいのだと。悔いなく眠れと、労わるように紡がれる言葉は、近くで怪物たちを相手にしていた狼たちにとってみれば、出陣前、ロウが口にした殲滅という言葉とは裏腹な、相手に情けをかけるものに聞こえている事だろう。  しかし、近くにいる狼たちの耳には届かぬその声の本質を、傍らで聞いているセイは、背中がざわつく中で感じ取っていた。  声は優しく腕を引く。こちらへ来いと誘い込む。柔らかく温かく、もう苦しまずとも済むと言う。一度でも望んだことがある者ならば、引き寄せられてしまうかもしれない、その先へ。  ――俺に同調するなと言ったのは、……そういうことか。  セイは耳を揺らすと、ロウの声を意識して振り払った。  ビキが身を抱えて膝を折る。ロウの放つリューゴに抗い、鋭く睨む目がロウとかち合った。傍らでそれを、セイも見守っている。 「……終わりにして良い。お前はよくやったよ。……誰かが悪かったというわけじゃないし、もう無くなったものをお前が背負い続ける必要も無い。違うか」 「……っ、やめろ」  ビキが掠れた声で抵抗する。  群れを失い、彼女自身に課せられた呪いの名の意味を理解して、今まで彼女を形作ってきたものを汲み取って、一つ一つ肯定しながら、けれどもう必要ないとロウは壊していく。  セイに名を与えた時とは逆だ。今ロウは、ビキから名を奪おうとしていた。 「……」  ロウの放つ威圧感にそれ以上は近づけず口もはさめないセイが、ロウへと目を向けた。視線に、黄昏時の空色が僅かな曇りを見せて返した。黙って見ていろと、声にならぬ声が返された気がする。  ――……これがお前のつくる『死』のかたちか……。それとも、それはお前が誰かから向けて欲しかった言葉なのか。  思いはしたが、セイは言葉を呑み込んだ。
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