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第十八話『殲滅の果て』 4
眠りに落ちる感覚は、甘美で温かい、死の淵を覗き込むときと同じ感覚だと言う。
意識が解けて、朧に霞む。心地よく耳に届く音はやがて何も聞こえぬようになり、身体は夜露が落ちるがごとく深い眠りの中へと溶けていく。
声に従い落ちたが最後、ビキは眠りに落ちるようにして意識を手放すことだろう。 同情からくるせめてもの情けなのか、落ちれば終わると、セイも小さく気を抜いた時だった。
「いやだ……。イヤだ! あの人以外が、あたしにそんなことを言わないで! あたしはあの人に、……あの人の口からそれを聞きたかったのに!」
声を張り上げ、ビキが最後の抵抗を見せた。
あのひと、という言葉が与えた一瞬の幻影を見る。誰だ、とロウとセイに小さな疑問が生じたのと同時であっただろうか。ビキに引導を渡そうとするロウと、見守っていたセイの合間から、枯れ草色の影がすり抜け駆けて行った。
アルグの止める声が、ロウの背後から聞こえた。
「ロウ! すまない逃げられた。そいつを止めてくれ!」
咄嗟に動いたロウ爪の先、セイの腕。両者どちらも僅かに間に合わず、枯れ草色の影がビキへと向かって牙を剥く。
「フォロゴ、止せ……!」
再びアルグの声がしたときにはもう。枯れ草色の狼は、ビキの首元に喰らい付いた後だった。
アルグたちに追われ、フォロゴは一度船室に立てこもっていた。しかし、聞こえてくる音からしてセイレーンたちもその子供である怪物たちも倒された気配を感じたのだろう、逃げ場がないと察したのか、自ら扉を開けて抵抗もなくコルナウスに捕らえられようと覚悟を決めていた。
ルプコリスを再び手にするか、それとも完全に滅ぼすか。先王の血を絶やすことがフォロゴの当初の目的だったはずだ。けれど、先王の子であるアルグを前にしたとき、敵わぬ相手と感じ取ってしまった瞬間に彼の望みは潰えていたのだ。
ならばもう、ここで終わりだ。
扉を開けた瞬間に殺されるかもしれない。それでもいいと思ったからこそ、扉を開けたはずだったのに。
抵抗なく捕らえられようとする時だった。甲板から聞こえたビキの叫び声に、そこまで来てひとつだけ心残りになるものがあったと、フォロゴは自身を取り囲む兵の手を振り切って、甲板へと向かって行ったのだった。
制止するコルナウスたちよりも早く、駆け上がった狼の向かった先は、愛した女のところであった。
「ああ、ビキ。……私の夢……、私の希望。…………私の愛」
血に濡れた口元で、フォロゴがうわ言の様に言葉を吐いた。
血まみれになり、虚ろになった目を向ける女を前にして、枯れ草色をした狼が力なく笑う。
「お前が誰を想っていようと、私は構わないよ。ビキ。だが……だがね、ここまで来て。ここまで来ておいて、……お前のそのいのちが、その存在が、誰かのものになることだけは、私は、……許せそうもないんだよ……」
ああ、と両手で顔を覆ったフォロゴは喉の奥でさらに笑う。
「ビキ。私の愛。……ああ。ああ、私はお前の望む幸福を、与えてやりたかった……だが、……だが。それだけは……」
ふ。とか細く弱くなった息を吐いて、女も笑う。
「……ごめんなさい、おじさま、あたしは……あなたに…………」
複雑な笑みを見せた後意識を手放したビキは、ロウの放ったリューゴの余韻の漂う中ようやく名を捨て、自由となった。
その後男は呆気なく狼たちに捕らえられた。
そして、長く癒えることのなかったルプコリスの古傷がようやく塞がり始めることとなる。
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