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第十九話『決意』 3
フォロゴが捕らえられたあの日、船の中から三つ卵が見つかった。コルナウスの者に問われると、フォロゴは素直に、それをセイレーンの姉妹、タウゥとビキが産んだものだと証言した。二つはタウゥが船に捕らわれていたコルナウス兵との間に、もう一つはビキが自分との間に産んだものだ、と。
未だ船内にある卵の、どれが誰の卵だと特徴を細かに口にしてから、フォロゴは言う。
「二つはお前の部下の子だ。もう一つは私の子よ。それも殺すか? 災いを呼ぶフェンリルの子。だが、生かせばいずれその子も私の事を知るだろう、さすれば今度はお前が私になるのだ、お前が私を追い続けたように、お前はその子に追われることになるだろう!」
その言葉に、ざわりと、アルグの中に卵を潰そうとする衝動が沸き起こった。それは長年彼が抱えて来た感情のなれの果てだったのかもしれない。
沼地の泥のように足を取り、どす黒く渦を巻く。殺意、と言葉にするには容易くて、けれどそれ以外の何物でもない衝動だった。
兵を振り切り一人船内に潜って行ったアルグは孵化室の中で大事に守られて来た卵に向き合った。鋭く爪をとがらせた手が、薄い殻で外界と内とを隔てる命にかかけられる。強く力を籠めれば割れてしまうそれを砕こうとするために。
その一部始終を目の当たりにしてきたロウが、視線の先、アルグが大事そうに抱えるものを見て頬杖をついてあきれ顔で尋ねた。
「それは、……どういう心境の変化ですか」
「俺たちが、……いろいろ言ったせいか?」
セイの言葉にアルグは首を振る。
「それもありましたけど、それだけではありません」
来客をもてなす用にと開けられた部屋は、床には規則正しく敷き詰められた色石の床板が、さらにその上に涼やかで落ち着いた色合いの糸で織られた敷物が敷かれている。床に直に座る形のもてなし方はこの地方では珍しい。
ふわりと長い銀色の尾が床を撫でる。夏用の糸で織られているのだろう敷物の触り心地は毛の先にも心地のいいものだ。
手前にいくつも並べられた足の短い小さな卓の上から酒器を取り口にすると、アルグはどこか満足気に深く息を吐いた。
「なら、何だって言うんです。……あんたその卵、壊そうとしてたじゃないか」
アルグが抱えていたのは、あの時船から見つかった卵のひとつ。ビキが産んだフォロゴの子だと言われていたものだった。
「……そう、ですね」
アルグは確かにあの時殺意をもってその卵に触れていた。
長い年月憎んできた相手に煽られるままに動いたのか。それとも別の何事かを考えていたか。頭に血が上り衝動的になっていたアルグには正しく理由を思い出すことはできなかったけれど、その後向けられた声によって、冷静さを強制的に取り戻すこととなった。
あと一歩を、止めさせたのはセイだった。
「アルグ! やめてくれ、……頼む」
一言、春の雪解け水のような、冷えた声が頭から降り注ぐ。
「これが誰の子であれ。セイレーンの卵なら……、俺にとっては希望の塊なんだ。頼むから……、卵だけは、殺さないでやってくれ」
「殲滅させると言ったのは、同情して助けを乞うことも無いと言ったのは、誰でもなく、君ではなかったか」
「そうだけど!」
狂い出した群れは止めねばならないとセイは思う。止めるのならば徹底的に。だが、まだ生まれてもいない子を宿す卵まで奪うことはできなかった。それは彼の群れの女たちが望んだもの。セイが与えてやれなかったもの。ひとつでもあの群れの中に生まれていたら、女たちは狂わずに済んでいたかもしれない、希望の塊だったから。
セイには潰すことはできなかった。潰そうとするならば守らなければと思わせた。
セイが卵の前に両手を広げて割り込んで抑止する。重ねて、止めてくれと言ったセイの声によって頭を急に冷やされ、よろけたアルグの腕を掴んだのは、血に濡れたロウの腕だった。
「親が何をした奴だろうと、どんな状況で生まれたものであろうと、親が作った因縁を子に背負わせるもんじゃない。まして幼子に殺意を向けたらそれこそあの男と同じになるぞ。そんなこと誰も望んでいないはずだ。あんたの王も、あんたが守るべき民たちも、あんた自身、それがどういう結末になるか知ってるはずだろう」
「残された者の苦しみは痛いほどわかるとも。……それに、復讐心を消せぬまま追い続ける者の苦しみも……。だから、何も知らないうちにここで潰してやろうと言うんだ」
ぼそりと、吐き出された声のまがまがしさに、ロウの背筋がざわりと粟立つ。セイもまた、己の抱えていた考えの行きつく先の暗さを見て、怖れを抱く。
「ずっと消えない澱みを背負わせるのなら、せめてここで……っ」
「止せ! あんたがそんな責まで負うことは無い! それ以上やるというなら、それは国防のためでも王のためでもなく、あんた自身の罪になるんだぞ!」
重ねて、ロウは沈んでいたアルグの感情を呼び覚まそうと声を紡ぐ。けれどそれにも抗うように、アルグは吠えた。
「これが罪だと言うなら、オレの首ひとつ落とせば済むことだろう! この子供を生み出したことも、あの男を狂わせたことも、すべて、オレの責だと言えば良い、オレが災いを呼ぶ獣だったのだと、そう言えば大方の者は皆納得する!」
深い緑の目が、澱む闇を抱えたまま正面で未だ卵を守るセイに向けられた。言葉の端々にこびりつく感情は、歌い鳥のそれではなくてもセイには痛いほどよくわかった。
今のアルグは、周囲がそう言ってくれることを待っているのだ。自分は災いを呼ぶ者だ、だから悪役に仕立て上げてくれと願っているのだ。言われるまま恨みを引き受け、裁かれてやればそれでいい。命を捧げることにためらいはない。周囲はそれで納得するだろう。
そうしてやることで、罪を向けられた者もまた気持ちよく消えることができるのだから。
自分が今ある災いを、お前たちの憎しみを、背負って死んでやったのだと。自己犠牲とは名ばかりの、自虐の中にある自己満足。その歪んだ欲求の中に身を投じるのは、快感と言わず何という。
けれどそれは、何の解決策にもならぬことを、もうセイは知っている。
「アルグ、だめだ。それはあんたが欲していい言葉じゃない。あんたが欠けたら、あんたの群れは、国はどうなるんだ。あんたは優秀な王のひとりだ、そんな言葉を、望んじゃいけない」
かぶりを振るセイに対し、アルグは冷水に触れた肌が熱を取り戻そうと急激に熱くなるかのように、押し返してきた感情の波に飲まれそうになっていた。ロウが掴んだ腕を振りほどこうとするためか、アルグの腕は半獣型のものへ変わろうと歪み始めた。
喉に、唸り声と言葉が入り交ざる。
「オレが死んでもアウルがいる、あいつこそ優れた王だ、国の要だ。あいつがいるなら、それで……っ」
「あんたは、ここでいらぬ罪背負ったあんたのことまで、その大事な弟に裁かせるつもりでいるのか!」
――だから、それだけは止めてくれ、アルグント!
いつか預かったアウルクスからの言葉だった。それを混ぜ込み声の楔としてロウが言い放つ。そのまま深いところまで刺さって、沈んだ彼の心を引きずり出してくれるのを信じて。
アルグの内側で弾けようとした暗く濁った感情を、ロウとセイの声が蓋をして鍵をかける。
もう終わったのだと、ロウが告げたところでアルグの姿は一瞬で人型へと戻って行った。するりと力の抜けた膝が折れ、床に落ちた指先はもう卵を砕くような力を失っていた。
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