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序ー1
国境の深い谷間には、鋭く尖った獣の歯牙列を思わせる奇岩の柱が立ち並んでいる。そこには今、谷底がまったく見えなくなるほどにみっちりと白い霧が立ち込めていた。
春の畑仕事は一段落し、気候を塗り替える雨が過ぎた。季節は空に浮かぶ二つの月の、大きく歩みの遅い赤い月が満ちていく頃。
谷底へ向かって流れ来るのは夜に冷やされた冬の終わりを告げる冷たい風。太陽に温められた岩肌と温んだ夏の気配を帯びた水が谷間で交差して生まれ出た霧は、常ならば朝日が昇ると上流に向かいゆったりと流れ登って消えていくものなのだが、押し出すほどの風が無いのか今朝の霧は中々消えずに留まっていた。
渓谷を埋める霧は朝の光を含んで淡く光を放ち、僅かな風を受けてゆるゆると動いて見える。水から霧へ姿を変えてもまだ緩やかに流れ蠢く様は、水の記憶を持つ古の巨大な生き物のようであった。
「ああ、やっと晴れてきたな……」
奇岩の群れの中に設けられた見張りの櫓から、下を覗き込む白い影が呟く。
「すぐに下流から強めの風が来る。下にいる船に向かって鐘を鳴らせ。誘導用の光石を水に入れろ」
「はい!」
よく通る男の声が指示を出した。遠くまでは見渡せなくとも、その声はいくつかある見張り台に立つ者たちの耳にはっきり届いた。
ぴんと張った様々なかたちの獣の耳が音を拾う。
鼻を利かせて動き出す者、翼を広げ滑空して行く者、岩と櫓を結ぶ太く結われた縄の上をちまちまと器用に走って進む小さな者もいる。
濃霧の中でも彼らが動くに支障はないようで、指示を受けた者たちは、数ある奇岩の見張り櫓の周囲を駆け回り、一気にざわつきを広めていった。
霧の中を動き回る影には、いくつもの獣の耳や尾が見える。数は数十というところか。種族に統一感は無いが、彼らの動きに無駄は無かった。
慌ただしく動き出した谷間の底に、ようやく朝の光が差し込み始めた。
この渓谷は複雑な地形と水の流れの影響で特に霧が溜まりやすい。今の季節、朝霧の生まれやすい日などは、奇岩群の下に造られた停留所が川を行く船たちの避難場所となっていた。上から見てもまだうっすらとしか見ることができないけれど、数ある見張り櫓の下には昨夜から数十の船が留まっているようだ。
しばらくすると、カン、カン、カン、と金属の鋭い音が響きはじめた。風が来るのを知らせる鐘だ。
薄らぐ霧の下からは、ぽつりぽつりと赤や緑の明かりが見えてくる。これは岩礁を教える警告灯と、誘導灯。水に浸すことで発光する光石と呼ばれるものの灯火である。
風の知らせから間を置かず、今度は、コーン、コーンと別の鐘が鳴り始めた。その音に、見張り櫓の群れを管理する砦に詰めているものたちの尾や耳が動いた。
「出航準備ヨォーシ」
「船が離れるぞ――!」
どこからともなく聞こえる、狼か狐の遠吠えに似た報告の声。
ひときわ強い風が吹く。霧が晴れるのを待っていた船が、古き水の流れを記憶した切れはしの向こうに青空を見つけて錨を上げだすと、停留所には様々な音が混ざり合い始めた。
人の声、動く音。錨の上がる金属の音、目覚めた船があげる木材のきしむ音。ゆるりと張られた帆が上流へ向かう風を掴む音。うっすらと流れて消える霧の合間から聞こえるそれらの音の洪水は、にぎやかで忙しなく、活力に満ちていた。
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