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漫研部は、部員同士を下の名前で呼び合うことが多い。だから、珠里も他の部員から「珠里ちゃん」と呼ばれ、相手のこと「偲部長」「律子」「倫」と呼んでいる。桐矢のことも「前沢」から「桐矢」と切り替えて呼んでくれている。
それだというのに、桐矢の方が切り替えられずに未だに「宮古」と苗字呼びをする現状だ。珠里に対して下の名前で呼ぶようにしたら、他の部員の呼び名も切り替えなくてはいけないとか、でも急に全員呼び名を変えたら変だろうかとか、そんなところにまで気を回したら煩わしくなってしまって、何となくシフトし損ねた次第である。
そもそも、中学時代から同じクラスの律子のことですら、未だに下の名前で呼ぶことができないのだから、桐矢にとって呼び名はハードルが高い問題だった。結局そういうことを繰り返して、桐矢は漫研部の誰のことも下の名前で呼べない。少し寂しいが、仕方がない。
珠里の入部から一週間が経つ。
彼女は、絵を描くことはできなかったが、見る・観察する力は優れているものがあった。
例えば、部員が自分の描いた絵に対して「何か上手くいかない」「何か気に入らない」と漠然とした物足りなさを感じている時、珠里はその「何か」を具体的に捉えて当人に説明することができた。絵全体の構成や雰囲気といった大枠から、線の太さ・角度・長さといった細かい点まで、珠里の着眼点は非常に的を射ているのだ。
桐矢はそんな彼女のことを素直に尊敬した。漫画のストーリーや台詞の運びといった点については桐矢も考えることはできるし、相談に乗って入るが、絵に関してはからっきしだったからだ。というよりも、自分が絵を描かないのだから見ても分かるわけがないし、口出しする権利もないと尻込みしていた部分があったのだ。
そんな状況で、偲は「じゃあ、ストーリー編集が桐矢君で、作画編集が珠里ちゃんってことになるね。適材適所でいいじゃない」と、にこにこしている。律子と倫も、似たような感じだ。
今は、五月末に締め切りを控えている部誌の原稿作成が主な活動である。
が、ありがちな話ではあるのだが、部員達の作業効率は非常によろしくない。集まると喋り、喋ると手が止まるからである。そして、そのことを咎める者が誰もいない。
紙やペンを一通り机の上に広げてはいるが、部員達は今日も喋っていた。「漢方薬っぽい響きで魔法を放つ」とか「モブの死に方のバリエーションとは」とか、会話というよりは大喜利みたいなことをして遊んでいた次第である。
そのなかで、律子が「よくゾンビ映画とかで調子に乗って『なあに用心していれば平気さ』ってがっつり噛まれるモブがいるけどさ、あんな人実際はいないよね」などと言っていたのに、桐矢も同意して笑ったりなどした。
そういう小さな盛り上がりがあった後、倫が思い出したように言い出す。
「あ、そういえば、今日一人見学者が来るんでした。部員確保のチャンスですよ」
「えっ、何それ初耳だよ」
偲が驚きつつも、嬉しそうな顔を覗かせた。
桐矢達も、初めて聞く情報に胸を躍らせる思いだった。
新入生だろうか。それとも、倫の知り合いの二年生だろうか。どちらでもいい。もしもその生徒が入部してくれるというなら、これで晴れて部の存続が決定するのだ。
「言いそびれてすみませんでした。うちのクラスのトシ君って知ってます?」
「トシ君?」
律子が首を傾げるので、倫は言い直す。
「北上稔貴君です。四月から同じクラスになったんですけど」
この学校は一学年八クラス編成で、二年生に進級する際に文系理系のコース別にクラス替えがある。それで、倫と最近知り合った生徒なのだろう。
しかし、今年知り合ったばかりでニックネーム呼びとは。桐矢からすると、倫のその感覚が分からなかった。
「ちょっと待って北上君って、あの北上君じゃない?」
本名を言われると頭のなかで思い当たるものがあったのか、律子が明るい声ではしゃぎ出した。
しかし、桐矢はまだぴんとこなかった。
その様子を察して、律子が説明してくれる。
「桐矢君も絶対見たことはあるって。あの、学年集会とかで一人だけジャージとかパーカー着てる男子がいるじゃん。彼だよ」
「あー、分かった」
それを言われると、桐矢の記憶のなかでも人物を特定することができた。
一年生の頃から学年で集まると一人だけ目立つ出で立ちの男子生徒がいた。律子の言う通り、その生徒は、下は校則通り制服のスラックスを穿いているが、上はいつも私服らしきジャージやパーカーを着ていた。一応色はいつも制服のジャケットと同じ黒に合わせてはいるようだったが。
「あのイキった感じの」
「彼の服装のことを言っているなら、あれは本人曰く、入学してすぐに制服を盗まれたかららしいからですよ。で、買い直すお金もないとか何とかで」
桐矢がつい口走ってしまった言葉に、倫がフォローを入れた。本当かどうかは定かではないが。
倫は更に話を続ける。
「それで僕、そのトシ君に話しかけられまして。彼も絵が好きだっていうから、漫研部に見学だけでも来ないか勧めてみたんですよ。そしたら興味を持ってくれまして、今日これから来ると思います。日直の仕事が終ったら」
「入部してくれるかなぁ、北上君。結構イケメンなんだよね。今年は美男子美少女が増えて嬉しいな」
「俺、ちょっとあの人苦手なんだよな。喋ったことないけど、何となく怖い」
浮ついている律子に対し、桐矢は少々不安を抱えていた。
彼――北上については、服装のことを差し引いても、桐矢はあまりいい印象を抱いていなかった。廊下ですれ違う程度で話したことはなく、思い込みかもしれないのだが、雰囲気が何だかぎすぎすしているというか、独特の尖りを感じるのである。
「怖くないですよ。普通に気さくでいい人です」
倫が言うので、桐矢はそれ以上の主張はやめた。会ってみない以上、先入観は禁物であろう。
だが、黙っていた珠里の様子が明らかにそれまでと変わっていた。
「倫……その、北上は、本当にここに来るって……?」
その声は、どことなく震えているようにも響く。
「来ますよ。そろそろだと思います」
「どうしよう……」
倫が頷くと、珠里はますます焦るように、落ち着きのなさを見せ出す。
突如動揺し始めたその様に誰も声をかけられずにいると、珠里は一言、
「すみません……!」
と言って走り出し、ドアを勢いよく閉めて部室を飛び出していったのだった。
残された桐矢達は、暫し呆然と立ち尽くしていた。
それから徐に口を開いたのは律子だった。
「……どうしたんだろう、珠里ちゃん」
「もしかして、元彼とかそういう……」
倫が言いかけて、その後口を噤んだ。自分でも下世話だと思ったのかもしれない。
兎にも角にも如何ともしがたい状況に困惑し、桐矢は縋るような思いで偲を見た。
それを受けて、偲が言う。
「とりあえず、見学者だっていうなら今はそっちの対応をしよう。珠里ちゃんは荷物をここに置いていったし、そのうちまた戻ってくるだろうから」
その時だった。
「――失礼します。見学、いいですか?」
時機を合わせたかのようなノックとともに男子生徒が一人入室する。
彼が北上稔貴、その人であった。
「いいよ、どうぞ」
と、部長の偲が立ち上がったので、桐矢も何となく立ち上がってはみたものの、北上の顔を見るとやはり委縮してしまう自分がいた。
律子がイケメンと評価する通り、背も高くしなやかな体型かつ中性的な整った顔立ちで、羨ましいくらいの見た目ではあるのだが、何というかオーラが怖い。彼の何がそうさせるのかは分からないが、腹に一物を抱えていそうな気配を纏っている。
「初めまして。三年の金ヶ崎だよ。よろしくね」
「二年の北上です。同じクラスの倫に勧められて、見学に来ました」
北上はにこやかに名乗った後、倫の方をちらりと見た。
「あ、あぁ、トシ君、その……待ってましたよ」
自分の名前を呼ばれたので反応しているが、直前の出来事による動揺を引きずっているせいで、倫の振る舞いはかなりぎこちない。少なくとも「待ってました」の顔ではない。
「……き、北上君、私、一組の山田だよ。北上君も漫画好きなんだねぇ」
堪らず律子がフォローしようと倫の前に立つが、律子の声の調子もだいぶ不自然である。
そんな様子を気にしているのかどうか定かではないが、親しみを感じる話ぶりで北上が答える。
「んー、漫画ではないんだけど、絵を描くのが割と好きでさ。うちの妹や弟が小さい頃に絵を描いてやってたのが、染みついちまった感じ」
「ふむふむ、それなら作品はイラスト中心になるかね。入部したらの話だけど」
と、偲が間に入った。彼の相槌はごく自然だ。別に何を取り繕っているわけもなく、北上の言葉に素直に反応した結果だろう。
「漫画自体はそんなに詳しくないんですけど、それでもいいですか?」
「問題ないよ。極端なこと言うと、別に知識がなくたって絵は描けるからね」
「よかった、ありがとうございます」
北上と偲の間で、和やかに会話がなされる。
桐矢、律子、倫の二年生勢は、その様子を見守るしかなす術がなかった。下手に会話に加わると、要らぬぼろを出しそうだったからである。
桐矢に至っては、未だに北上と挨拶すら交わしていない。
それはさておき、推し量るに、北上が入部を申し出そうな流れである。そのことで部員数が規定に達するのは喜ばしいが、逃げた珠里のことが気がかりである。
どうするのだろうか。
珠里が戻ってきた頃に、北上が既に部員になっていたら。
桐矢は、嫌な焦燥感で息が詰まる思いだった。
「あぁそうだ、ところで聞きたいんですけど――」
北上が徐に尋ねる。
「最近、宮古珠里っていう二年の女子が入部しましたよね?」
笑顔ではあるが、まるで貼り付けたかのような不自然な笑みだった。
桐矢はその顔に戦慄し、息を飲んだ。
しかし、偲はあくまでも冷静だった。
「入部はしたよ。それがどうかしたの?」
「珠里は今どこにいますか?」
質問に対して質問を重ねる北上。その言動には偲も怪しさを感じたのだろう。
「彼女がどこに行ったかは俺らも分からないんだ。だけど、何で君はそんなに珠里ちゃんにこだわっているの?」
「それはお気になさらず」
「……し、質問には答えなよ、北上君。言えないような理由で珠里ちゃんを探すなんて、おかしいでしょ」
「そうですよ、トシ君……その、何か変ですよ」
律子と倫が、恐る恐る抗議した。
すると、妨害要因が増えたとみなしたからなのか、北上は苛立ちを露にし始めた。
「――うるせえなぁ。お前らは黙って漫画描いてろや」
口調もそれまでに比べてかなり荒っぽくなっている。非常に柄が悪い。
威圧するような口調で言う北上に、律子と倫はあっという間に怯んだ。
「鞄がここにあるってことは、まだ校内にいるんだな」
北上は珠里の置いていった荷物を見やってから、呟いた。
そして、恐らく後を追うつもりなのだろう。踵を返して部屋を出ようとする。
「…………ちょ、ちょっと待って」
それまで出なかった声を漸く振り絞って、桐矢は北上に向かって言った。
「り、理由……理由言わないとか、ホント駄目だからそれ……」
声を出すと身体も動き、桐矢は咄嗟に北上に近づいてその服の裾を引っ張った。少しでも彼の動きを制止しようとしたのだ。但し、ずっと下を向いたまま。北上と目を合わせたら、再び硬直する気がするからだ。
「誰だ、お前?」
「……い、一組の前沢……前沢桐矢だ」
北上に問われ、名乗る桐矢。初対面の相手にこんな形で名乗ることになるとは、不本意ではあるが。
「そうか、桐矢な」
何故かいきなり北上に下の名前で呼ばれて、桐矢は予想外のところで面食らった。
これはいっそのこと、彼のことも稔貴と呼んだ方がいいのだろうか。しかし、漫研部のメンバーのことだって苗字呼びなのだからそれは気まずいだろう。
と、デジャヴのような迷いが一瞬発生したが、本題はそこではない。
「桐矢、お前はさっき言ったことが聞こえなかったのかよ」
「…………聞いたけど、それじゃ納得できないから」
「お前が納得するかしないかは関係ねえんだよ。あと――」
北上はそう言って、桐矢の顔を両手で挟んで強引に引き上げ、ドスを利かせた声で言う。
「喋る時は人の目ぇ見て喋れや」
力ずくで合わされた北上の目は、黒目がちで形はよかったが、桐矢を縮み上がらせるには十分なくらいの鋭い眼光を宿していた。
「ごめんなさい……」
桐矢は恐怖に耐えられずに目を閉じ、やはり早々にギブアップを宣言した。
そのように北上に食いつこうとする者が軒並み即退陣するものだから、彼は最早ここにいる部員に取り合う価値はないと判断したのだろう。
自分の荷物を投げ捨てるように放り、部室を後にした。慌ただしく廊下を駆ける音が、やがて遠ざかっていく。
その音が途絶えたのを確認して、倫が顔を強張らせながら口を開く。
「……きっと、珠里さんを捜しに行きましたよね」
その問いに直接答える者はいなかったが、全員の認識は共通だった。
「でもまあ、とりあえずここからは離れていったから、一端珠里ちゃんを呼んでこようか。多分トイレにでも隠れているんじゃないかな」
偲が言う。
その読み通り、律子が部室から出て廊下の突き当りのトイレの様子を覗うと、珠里が申し訳なさそうな顔をして出てきた。
部室に戻ってきた珠里は、まず偲に頭を下げた。
「――すみませんでした」
「うん、色々あるんだろうからそれはいいけどさ、彼もここに荷物を置いていったから、そのうち戻ってくるんだと思うんだよね。ずっとトイレに隠れているわけにもいかないだろうし、どうする?」
「――もう大丈夫です。ちゃんと彼には話しますから」
過去のことなのか現在進行形の問題なのか分からないが、珠里と北上の間には何かトラブルが顕在しているようだ。
珠里自身は覚悟を決めているようだが、北上が再び戻ってくることを考えて憂鬱になるのは桐矢だった。
怖い。もう話したくない。
できれば珠里に代わって、自分がトイレに籠りたいくらいだ。
恐怖を感じる状況下での反応は人それぞれで、桐矢はそうやって逃げ腰の精神で、しかも身動きができなくなるタイプなのだが、律子はまた違った形でそれを示す。
居てもたってもいられなくて落ち着かなくなり、結果余計な行動をするのだ。
「……私、ちょっと様子見てくる」
「見てくるって、何で? 見にいかなくたって戻ってきちゃうんだよ」
冷静な判断力を失っていると思われる律子を、偲が止める。
尤もである。しかし、律子は今のような「待ち」の状況を苦痛に感じるのだ。だから早く結論を出して問題を片付けようとするあまり、わざわざ危険に自ら近づく真似をする。
「大丈夫。気をつけて見にいくから、大丈夫……!」
そして、ぱたぱたと部室を出ていってしまった。
「山田、それ駄目なやつ! 駄目なフラグだからそれ!」
無駄と知りつつも叫んでみた桐矢の突っ込みも、虚しく響くだけだった。
そして、先程部員達で交わしていた会話を思い出し、桐矢は思った。
(こういう奴がいる以上、調子こいてゾンビに噛まれる奴は本当にいるんだろうなあ……)
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