第2章 愛の形

3/8
前へ
/26ページ
次へ
 あれから13年の月日が流れた。  澪は今や18歳。大学受験を控えた高校3年生だ。毎日のように学校と家を往復する日々で、正直ストレスも疲れも溜まっていることだろう。とはいうものの、澪の机の横では今も人形のベルがそっと佇んで見守っている。彼女にとってかけがえのない存在。嬉しいときも悲しいときもいつも側にいた、唯一無二の親友である。 「じゃあ、学校行ってくるね」  私と妻に微笑みかけて、澪は今日も学校へ向かう。最寄りのバス停へと向かうその背中を、笑顔でベルは見送っていた。 「さて、そろそろ仕事に行くか」  澪の出発を見送った所で、私も出社の時刻だ。長崎市内の造船所で働く私は今、大きな仕事が舞い込んできて多忙な日々を送っている。船が昔から好きな私としては、今の仕事は大変なことも多いが楽しめていると思う。自分の関わった船が世界の海を航行する――船好きとして、これ以上の幸せは無い。  朝食を片付け、荷物の支度を終えていざ家を出ようと向かおうとすると、台所から妻の咳き込む声が聞こえた。この頃、妻曰く「疲れが溜まっている」らしく、時折咳き込んでいるのを耳にすることがある。私自身、仕事が休みの日には積極的に家事をするし、偶には澪も含めた三人で小浜や雲仙の温泉へ日帰り旅行をすることもある。不器用な私なりに、疲れのケアをしているのだが、それでも妻の身体の疲労は癒えることがないようだ。 「大丈夫か?無理しなくても・・・・・・」  私が心配になり声をかけるも、妻は私の顔の前に手の平を見せて制止する。 「大丈夫よ、あなた。あなたや澪にはいつも迷惑をかけてるわね・・・・・・」 「いや、そんなこと・・・・・・」 「それより、時間大丈夫?大事な仕事でしょ?早く行かないと」 「あ、あぁ・・・・・・じゃあ、いってきます。何かあったら連絡を」  私が心配すると、妻はいつも話をはぐらかして誤魔化す。何か隠し事をしてないだろうかと思ったが、あまり深く詮索しない方が彼女にとっても私にとっても良いのかも知れないと思い、それ以上聞くことが無かった。  私が家を出ようとすると、妻も見送りのために玄関先に出てきて手を振っていた。しかし、その手はどこかか弱く見える。何か悪いことでは無いと良いがと不安を感じつつも、私は妻に見送られながら車で職場へと向かった。  職場に着くと、何やらいつにも増して騒がしい雰囲気であった。怪訝に思いつつも自分の席に着くと、間もなく部下の社員が手を震わせながら書類を渡しに来た。 「課長・・・・・・確認お願い致します」  か細い声を震わせながら渡す社員。どこか具合が悪いのかと尋ねる前に、彼はそそくさと自席に戻ってしまった。不思議に思いつつ、彼から手渡された書類に目を通してみると、驚くべき内容が書かれていた。 『X国向け豪華客船建造事業の受注撤回による事業中止の決定と、今後の当社の造船事業について』 『受注する方針を固めていたX国向け豪華客船について、当事業所及び当社関連企業における不祥事の多発を受け、X国政府及び運航事業者より「商品の品質及び安全性の確保が困難であると見受けられる故に受注を撤回する」との回答を受け取り、当社役員会で審議を重ねた結果、その回答を受け入れる決定を代表取締役以下数名の役員が下した』 『また、当社造船事業に関して、以前より受注の減少及び建造時の不祥事や事故の発生が問題視されていたことを受け、事業規模の縮小を図る決定も下された。これにより、今後希望退職者を募る方針である』  私にとっては寝耳に水な話であった。中止の決定が下された事業は、私の部署も大きく関係している事業だ。社の威信をかけた巨大事業だとしても、またX国との友好の証としても、とても重要な事業であり、社内外からの期待はとても大きかった。それだけに『中止』の決定は、耳を疑うような話だった。  いや、確かに私の務める造船所とその関連企業では不祥事や事故が続いていたのは事実である。幸い、私の部署ではそのような事案の発生は無かったものの、発生する度に私の会社へ向けられる眼差しが期待から失望へと変わっていくのが目に見えていた。それが、私のみならずこの造船所に勤める人間にとって、大きな心理的負担となっていたのは言うまでもない。だから皆、会社の再興と負担からの解放を期待し、なんとしても成功させたい一心でこの事業を進めてきていたのだった。  書類から目を離し、ふと周囲を見渡すと渋い顔のまま顔を伏せる人、自分の身を案じて狼狽える人、どこか遠くを見つめながらため息をつく人、・・・・・・憂鬱な感情がこの部屋全体を包んでいた。中には涙を流す社員の姿も見える。重大かつ急な決定を、素直に受け止められないのは私だけでは無いようだ。  ふと、私は何となく外に目を移す。そこに見えるは篠突く雨の降るドック。先日まで船が入渠していた、無機質なコンクリートのドックには船の姿は無い。そこにはただ、冷たい雨が鋭い矢のように打ち付け、ドックの底に小さな水たまりをいくつも作り上げるだけだった。  外を眺めながら呆けていると、ガチャリと職場の扉が開いた。そこには経営の中枢たる役員が数名立っていた。皆、悄然として元気の無い声で「お疲れ様です」と役員へ声をかける。役員は顔を見合わせながら軽く咳払いすると、私たちに対し深く頭を下げた。ただ一言「すまなかった」と告げながら。  彼らに一人の社員が問いかける。その声は重かった。「私たちにこれからどうしろと言うのか。ここに新しい仕事はあるのか」  役員達は皆顔を下に向けたまま黙り込む。煮え切らない態度を見せる彼らに一部の社員が怒りを露わにした。「ふざけるな!」「俺の時間を返せ!」「黙って会社を辞めろと言うのか!」――役員らへ向けて、怒号が次々に飛んでいく。涙混じりに震える声で怒りの声を上げる。役員らも最初は黙って耳を傾けていたが、次第に「こうするしかなかったんだ!」「私たちも苦しいんだ!」と、詭弁ではあるが声を荒げて反論しだした。  段々と混迷を極める職場。怒号が飛び交うその空間では、若い女性社員らが静かに涙を流してその場にうずくまっている。辛い現実から少しでも目を背けようと、目を閉じても耳を塞いでも結局は何も変わらない。惨憺たる有様の現実。この場にいるだけで辛かった。胸が苦しかった。呼吸が荒くなった。  もうこの痛みに耐えられなくなった私は、すいません!と声を大にしながら大きく手を上げた。言い合っていた者の視線も、うずくまる女性達の視線も、皆私に飛んでくる。視線が私に集中しているのを確認した私は、小さく一礼すると、ただ一言小さな声で呟いた。 「私、辞めます」  自分でも自分の声が震えていたのは分かった。ただ、その震えが怒りによるものか悲しみによるものかは分からない。私の心が悲鳴を上げる中、精一杯に振り絞って出した声がこれだった。  突然の一言に周りは静まりかえった。驚きの余り、皆声を失ったようだ。  側にいた社員が、取り乱しながら私に話しかける。 「か、課長!自分が・・・・・・な、何を言ってるのか分かって・・・・・・!」  周りにいた社員らもざわつき始めた。役員達はただ腕を組んで俯くだけだ。 「あぁ、分かってる。退職すると言ったんだ。どうせ希望退職の話もその内出るようだったし、この会社を守るにはこうするしか無かったんだろう・・・・・・仕方ない」  ため息交じりに私はそう答えた。納得してくれるかと思ったが、周りの社員は私の退職を抑止しようと、涙を流しつつ必死に宥めてくる。やめないで下さい、課長がいなくなっては困ります、これからどうするんですか、・・・・・・と。  しかし私は彼らの期待に応えることは無かった。もう決心したことだと、彼らの生活を守るには誰かが犠牲にならなければいけず、その犠牲に私がなるのだと、私は彼らに何度も訴えた。最初は私の意思に抗おうと反論する者もいたが、次第にその声も小さく萎んでいった。  静寂に包まれた職場を、静かにゆっくりと後にする。普段は電話やFAXの音が鳴り響く時間帯だが、今日は革靴がタイルに反響する音が聞こえるくらいには静かだった。カツンコツン、カツンコツン――ゆっくりと歩いていると、職場の入口の扉の前に着いた。私はくるりと真後ろにむき直し、私の背中を見つめていた社員や役員達に深くお辞儀した。頭を下げながら、私は簡素ながらねぎらいと感謝の言葉を淡々とした調子で告げた。 「お疲れ様でした。ありがとうございました」  扉を開けて職場を出る。花束贈呈や拍手なんて、そんなものあるわけが無い。呆然とする社員達の虚ろな目と、自分らの地位にしがみつくことしか出来ぬ役員の安堵とも悔恨とも一概に言えぬ形容しがたい目が、ただ去りゆく私の背中を黙って見つめているだけだった。  ――さて、思い切って職場を辞めて出てきたことだ。退職金は入るとは思うが、これから先どうしたものか。とりあえず、再就職先を探してこなければ妻や娘に合わせる顔が無い。会社に翻弄されたからといって、やっぱりあの退職の決断は身勝手が過ぎただろうかと、思索に耽りながら車を走らせる。とりあえずハローワークに行って、とりあえず立ち寄ったコンビニで求人雑誌眺めて、仕事を見つけてこよう。すぐに見つかるとは思えないが、船一筋だった私に何か良い仕事は無いだろうか。  私が家に戻ってきたのは夕方の5時半頃だった。  玄関の鍵を開けて家の中に入る。暗く静まりかえった我が家。玄関にぶら下げたホワイトボードには『しえ 人形館へ外出中』と書いてあった。  実は妻は月に1度、人形館で知り合った人形好きの友人らと人形館でお茶会をしていると言っていた。展示されている人形を一緒に眺めたり、色々と世間話に花を咲かせたりして、日頃の息抜きをしているようだ。今日は生憎の雨であったが楽しめているだろうかと、私はリビングでゆっくり寛ぎながら思っていた。  また、人形館の近くには澪の通う高校もある。妻は人形館から帰途に就く際に、澪の学校へ迎えに行くようにしている。そして、二人で仲良く買物をしてから家に帰ってくる。これが毎月一度の月課というべきイベントだ。  さて、澪の部活動が長引いたりしない限りは、もうそろそろ二人が帰ってくる頃だろう。それまで私は、もう一度求人情報を整理したりしておこうか。そう考えながら、私は身体を起こして自室の机へと向かった。 『♪~』  暫く作業をしていると、私の携帯に電話が掛かってきた。軽快な着信メロディが静かな部屋に響き渡る。携帯を開いて相手を確認すると娘の澪からだった。何だろうと疑問に思いながら電話に出ると、緊迫した声で澪が私のことを呼びかけていた。 「お父さん!早く!早く来て!お母さんが!お母さんがぁ!」 「み、澪!?いったいなにが――」  プツン、ツーツーツー・・・・・・。  私が聞き返そうとしたら、電話は切れてしまった。電話の向こうで、澪は鼻水を啜りながら涙声で必死に私を呼んでいた。妻と澪に何があったのか、そしてどこにいるのか分からなかったが、ただ事ならぬ状況であるのは分かった。・・・・・・あれこれと考えていても仕方は無い。最低限の身支度を済ませた私は、とりあえず車に乗って澪の通学路周辺を辿ってみることにした。  外は相変らず雨が降っている。午前中と比べると弱まったように思うが、それでも小さな雨粒が霧のように舞い降っていて蒸し暑くなっているはずなのだが、今の私は逆に少し肌寒さを感じている。雨粒に濡れる私の肉体を、冷や汗がしたたり落ちているからだ。私の頭も心も不安と焦りで満たされていた。  澪が普段乗っているバスが通る、所謂バス通りを車で駆け下る。この道路は近年になり道幅が広げられた区間もあるが、未だに大型バスが車幅一杯になって走る狭隘路もある。また見通しの悪いカーブも多いため、車の運転に慣れている私も妻も、いつも細心の注意を払いながら走っている。とはいえ、私の脳裏にはある不安があった。 「まさか事故に巻き込まれたのか・・・・・・?」  運転に慣れていようがいまいが関係なく、どんな人間にだって事故に遭う可能性はある。これは当然のことだと理解できてはいたが、かといって身近な人間の悲劇だけは考えたくは無かった。しかしどうしてもその不安は湧き上がってくる。まさかそんな、いやそんなことはない。反語的応答を頭の中で繰り返しながら、二人の無事をただただ祈り続けた。  何分ほど走らせただろうか。いつの間にか私の車は石橋電停辺りを走っていた。眼前に見える電停の交差点を右折していけば、人形館や澪の通う学校へ通じる石畳の道が見えてくる。妻や澪の姿はそこにあるだろうか、そして無事なのか。期待と不安が胸をよぎり、胸の鼓動が早くなっていくのを感じる。  交差点を右に曲がり澪の学校の方へ進もうとしたら、前方に緊急車両の赤色灯と人だかりが出来ているのが見え、何らかの事件事故があったことが容易に想像できる。不安が増大し胸の鼓動が早くなるのを感じた私は、本当に二人は無事なのか!?どうか無事でいてくれ!と心中何度も願い続けた。  道端に車を駐め、走って現場へ駆けつける。傘なんて差す余裕はない。息を荒くして人だかりを掻き分けて前へ出ると、目の前には変わり果てた車の姿が見えた。  事故を起こしたのは、シルバーの軽自動車とタクシー。前者は右側面が潰れ、後者も前面が潰れている。どちらもスピードが出ていたのかもしれない。  妻の車もシルバーの軽自動車であり、車種も全く同じであるようだ。偶々同じ車種が事故を起こしただけだろうと自己暗示をかけつつ、私は軽自動車のナンバープレートへ視線を移した。さて、軽自動車の登録ナンバーは・・・・・・。視認した私の身体から力が抜け落ち、その場にへたり込んだ。あの軽自動車のナンバー「707」は、妻の車と全く同じだったのだ。私の目の前が真っ暗になっていく。 「大丈夫ですか!?」  側にいた野次馬の一人が私に声をかける。私は力ない声で大丈夫だと答えながら、ふらふらと立ち上がる。どう見ても大丈夫では無いのは、誰の目で見ても明らかだった。見張っていた警察官の一人が私のことに気がつくと、駆け足で私の元へ駆けつける。 「もしかして、関係者の方でしょうか?」  警察官が落ち着いた声で私に問いかける。驚いた私は首肯すると、彼は私の身体を支えながら規制線の内側へと連れていってくれた。おぼつかない足取りで歩くと、道端で蹲り嗚咽を漏らす学生服姿の少女の姿が見えた。溢れる涙を拭おうとする少女だが、涙は途絶えること無く流れ落ちるばかりだ。その少女の姿を見るなり、私はふらふらとしながらも少女の元へ駆けていった。 「澪・・・・・・澪なのか?」  少女は私の声を聞くなり、顔を上げて私の方を見る。一瞬ピタリと止んだ彼女の涙だったが、私の顔を見るなり再びあふれ出た。少女はやはり澪だった。私の姿が見えて安心したのか、私のことを大きな声で呼びながら身体をぎゅっと力強く抱きしめてきた。 「お父さん!お父さ~ん!」  普段、私や妻の前では笑顔を見せる澪の泣き顔。顔をくしゃくしゃにして涙を流す彼女の顔を見るのはとても心が痛むもので、自分まで一緒に泣いてしまいそうになる。泣いてしまえば、余計に澪を辛くさせてしまうと思った私は、泣くのを我慢しながら彼女の頭を何も言わずに優しく撫でて慰めていた。  撫でながら、私は澪にそっと問いかけた。 「澪、怪我はないか?」 「うん、私は大丈夫。心配ないと思うけれど、一応、後から病院で診てもらうようにって」 「そうか・・・・・・」  澪はどうやら大きな怪我をせずに済んだらしい。とりあえず娘の無事が分かって、ホッと胸をなで下ろした。しかし、問題はまだある。正直、心も体も弱り切った今の澪に聞くのは――と思い、思わず口をつぐんだ。  雨に濡れないよう、近くの軒下に移動して澪を慰めていると、救急隊員が私を呼ぶ声が聞こえた。私が返事すると、彼らは重い表情をして私に近づいてきた。神妙な面持ちの彼らを見ている内に、私の鼓動が激しくなるような錯覚を覚えた。紫衣は無事なのか、どうなのか、不安な気持ちで私の心はいっぱいだった。 「すいません、得河紫衣様の旦那様でいらっしゃいますか?」 「はい、そうですが」 「落ち着いて聞いて下さい。紫衣様は一刻を争う事態故に、旦那様が到着される前に緊急搬送致しました。場所は××病院です」 「一刻を争う・・・・・・?」 「はい、紫衣様は怪我の程度が重く意識もありません」  私は言葉を失った。人は心から本当に驚いた時、何も声が出なくなるものなのだなと痛感した。辛い、悲しいなんて端的な表現で、今の私の気持ちを表現することは出来ない。ただ途方も無い絶望感が私の眼前に立ちふさがり、私の大切なものを全て奪おうとしている苦しみがここにあった。  何とか言葉を振り絞り、分かったと一言返事をすると、救急隊員は深く礼をして駆け足で立ち去った。彼らの背中を見送りながら、私は澪にそっと問いかけた。彼女の疲弊した心を刺激しないよう、細心の注意を払いながら。 「澪、私は今からお母さんの病院へ行こうと思うが・・・・・・行けそうか?」  軒下で蹲っていた澪は立ち上がり、涙声ながらも力強さの見える口ぶりで答えた。 「うん、行く。私だってお母さんが心配なの」  私は彼女の決心に感謝しながら、二人で車に乗って紫衣の運ばれた病院へと向かった。時刻は既に19時前。夏の長崎と言えども、雨が降っていたこともあってか空はもう薄暗く、夜の帳がおり始めていた。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加