第2章 愛の形

4/8
前へ
/26ページ
次へ
「お母さん!お母さん!」 「紫衣!紫衣!」  私と澪は妻のことを呼びながら、集中治療室へ向けて駆け抜けた。  今朝まで当たり前のように側にいた妻が、何だかとても遠くの世界に行ってしまうような感覚がする。そんなことが嫌なのは澪だって同じだ。また三人と人形のベルと一緒に笑い合って暮らしていきたい。だから、どうか無事でいて欲しい――今はただ、そう願うばかりだった。  集中治療室の入口辺りは、医師が慌ただしく出入りしていた。今、あの部屋の中で妻は、紫衣はどうなっているのか・・・・・・。入口にいた医師に会えないものか確認してみたが、今はまだ治療中とのことで入ることは許されなかった。会いたいのに会えないもどかしさが私と澪を痛めつける。  とりあえず、立ちっぱなしも疲れるからと私と澪は治療室前の長いすに腰掛けた。腰掛けてからは何をするまでも無く、ただ治療室の扉が開いて妻と会える瞬間を待つしか無かった。  壁に掛けられた時計の音だけが響く静かで無機質な廊下。この雰囲気がかえって不安を感じさせる。私や澪からはただため息が漏れるばかりで、時間の流れがいつにも増して遅く感じた。    病院に来てから1時間ほど経過しただろうか。  集中治療室の扉が開き、私と澪の二人は中に入るようにと医師に呼ばれた。私と澪は互いに顔を見合わせて首を縦に振り覚悟を決めると、医師に連れられるがまま、妻のベッドへと向かう。  歩き始めて直ぐ、医師が立ち止まった。「こちらです」と彼は、カーテンで区切られた区画を手で指し示した。ここに妻がいるらしい。私はカーテンに手をかけた際、ごくりと息をのんだ。布のカーテンが鉄の壁のように重たく感じる他、カーテンを持つ手が震えている。それでも私は事実を受け止める覚悟をしてきたのだと、意を決してカーテンを開けた。  カーテンの先には、変わり果てた姿の妻がいた。  身体は血まみれ。上半身にも下半身にも無数の生々しい傷や痣が見える。苦しそうに息を荒げる彼女の苦悶の表情が、私や澪にもその痛みの辛さを感じさせる。今の彼女の姿は余りにも惨いもので、とても今朝の彼女と同じ人間だとは思えなかった。彼女の苦しそうな荒い呼吸が耳に入る度、私は胸に鋭いものが刺さるような辛さを感じる。  ベッドの脇で心電図がピーッピーッと音を立てながら、画面に心臓の鼓動を表す波を表示している。しかし、その波は健常な人間のそれとは程遠く、どこか息絶えそうな程弱々しいようにも見えた。  想像を絶する悪夢のような現実。私の側で妻の痛々しい姿を見た澪は感極まり、思わずその身体に寄りすがる。妻の手を握りしめながら、澪は何度も涙声で叫び続けた。 「お母さん!お母さん!お母さん!」  しかし、妻はただベッドに横たわって荒く呼吸するだけだ。号泣する澪の声は、今の妻には全く届いていないのかもしれない。澪は妻の手を力を落として離すと、嗚咽を漏らしながらへたり込んだ。治療室内に澪の泣く声が響く。  私と澪にとって、紫衣は大事な家族だ。しかし、その大事な家族のために今は何も出来ないという無力感が私たちを苦しめる。澪を不安にさせまいと涙を流さないように耐えてきたが、もう私の心も限界に近づいているようで、瞳の中に大粒の涙が溜まっていくのが分かった。 『お願いだ、紫衣。元気な姿をまた見せてくれ』  私は心の中で叫んだ。紫衣の声を聞けなくなるなんて考えられない。紫衣と何も出来なくなるなんて考えられない。紫衣のいない我が家なんて考えられない。紫衣のいない世界なんて考えられない。・・・・・・様々な不安が脳裏に渦巻く。当たり前が当たり前で無くなる、それも突然に。そんな辛いことがあってたまるかと神や仏をも恨むような勢いで怒りと悲しみを交々させる。瞳をギュッと瞑り、天を仰ぎ見るような角度で紫衣の回復を祈り続けた。  その時であった。弱々しくはあるが、澪の手を握る反応があった。突然のことに驚いた澪が顔を上げると、なんと妻が澪の手を握っていたのだ。微かに笑みを浮かべ、私と澪の顔色を窺うようにしながら、彼女は澪の白い手をそっと握っている。  妻の意識が戻った!私は嬉しさの余り、思わず妻に寄りすがった。 「大丈夫か!紫衣!」  私が喜びの余り声を大にして妻に問いかけると、周りの医師から落ち着いてと窘められてしまった。そんな私の姿を見て、妻は小さく笑っていた。何だか妻が元気が戻りつつあるように見えた私は、ホッと安堵のため息が漏れた。澪も安心してか、気持ちが落ち着きつつあるようだ。  妻の周りでは、依然として医師達が治療や経過観察を続けている。「急患が意識を戻したぞ!」「急いで処置を!」――大声が飛び交う側で、妻は酸素マスク越しにか弱い声で何かを私たちに伝えようとしていた。私と澪が側によって耳を傾けると、なんとか妻の声が聞こえてきた。 「あ、り、が、と、う」  確かに妻はこう話しているように聞こえた。澪もそう聞こえたと話す。妻の方を見ると、微笑を浮かべて私たちを優しく見つめていた。そんな妻に澪はどういたしましてと一言答えると、妻は2度小さく首を縦に降ったかと思えば、続けてまた何か私たちに語りかけていた。注意深く耳を澄まして聞いてみる。 「ふ・・・・・・り・・・・・・、・・・・・・ん、き・・・・・・」  所々マスク内部の呼吸の音で聞き取りにくい所がある。 「ふ、た、り・・・・・・、げ、ん、き・・・・・・」  二人、元気という単語は聞き取れた。私は元気だよ、澪もたいした怪我が無くて済んだから良かったよと私が妻に伝えると、今度は小さく首を横に振った。何かが違うらしい。澪がもう一度聞き直してみると言って、酸素マスクの側に耳を寄せた。それから間もなく、注意深く妻の声を聞いてた澪の瞳から再び涙がこぼれ落ちたのが見えた。  どうしたのか、何と言っていたのかと澪に聞いてみると、澪はすすり泣きながら答えた。「二人とも、元気でねって聞こえたの」  その時私の身体から血の気が引いていくのを感じた。慌てて妻の方をむき直すと、妻の表情が先程よりも虚ろになっている。それに息もまた荒くなってきているようだ。私は必死に妻に呼びかけた。 「紫衣!行かないでくれ!俺と澪を悲しませないでくれ!」  私の後ろから、澪も妻に呼びかけている。 「お母さん!死なないで!いなくなるなんて嫌だよぉ!」  私と澪は何度も呼びかけた。頭の中に何か言葉やメッセージが浮かび上がる度に妻へ叫んだ。周りの医師達も汗水垂らしながら、妻の身体を治そうと奮闘している。しかし妻の容態はいっこうに良くならない。むしろ心なしか悪化しているようにすら見える。  苦しそうな表情を見せるようになった妻には、もう声を出す気力も無いのかもしれない。心電図ももう弱々しく僅かに波打つだけだ。悪い夢なら今すぐ覚めて欲しいと願ったが、どうやら現実らしい。澪はもうひどい涙声になっており、私でも何を話しているのか聞き取れなかった。こんな苦しい現実に私は悄然とするほか無く、ただ瞳を閉じてジッと堪えていた。  その時だった。私の手を、軽くトントンと叩く反応があった。もしかしてと思い瞳を開けると、妻の人差し指が私の手の平を叩いていた。そして、そのまま手の平の上をゆっくりと何か書くように指でなぞっていた。スッスッと小さく肌と肌がこすれ合う音を出しながら。  最初は何事か分からなかったが、すぐに妻からのメッセージであることに気がついた。しかし、気がついたときには妻の腕が力なくベッドに横たわっていた。先程まで虚ろながら苦悶の表情を浮かべていた顔も、何だか不気味なまでに静かで綺麗な顔をしている。肌の感触は、とても生き物のものとは思えない冷たさだった。あぁ、これは・・・・・・。頭でも心でも状況を理解できたとき、心電図の音がピーーッと長く鳴り響いたのが聞こえてきた。 「××時△△分、ご臨終で御座います」  治療を担当していた医師が、もの悲しげに私と澪へそう告げた。  私の妻、得河紫衣の魂は空の上へと登って行ってしまった。目の前にあるのは得河紫衣だった人間の肉体が横たわっているだけだ。妻は――紫衣は、私と澪の元から静かに去って行ってしまった。  この日私は、大好きな仕事、そして愛する妻の二つの大切なものを失ってしまった。仕事自体はまた探して頑張れば良い――尤も不景気でそう易々と見つかるとも思えないが、それでもまだ何とか出来るはずだ。  しかし、妻の存在は一度失ってしまえばもう戻らない。大好きな明るい笑顔も、透き通った声も、家庭を支えてきた白い手も、隠し事が大好きな子どもっぽいが愛嬌のある性格も、・・・・・・みんなみんな戻ってこない。これからも作っていくはずだった紫衣との思い出ももう作ることも無い。  非情な現実が私に降りかかってきた。まるでそれは篠突く雨のように、鋭く胸の奥深くへと何本も突き刺さる。痛い、痛い、痛い、・・・・・・この胸の苦しい痛みは直ぐに涙と叫びへと変貌した。  私と澪は治療室を出ると、二人で抱き合い涙を流した。周りのことなんて考える余裕も無い。ただ、眼前に立ちふさがる喪失感が私と澪の二人の心を黒い霧で覆っていくのを感じることしかできない。声にならない声を上げ慟哭しようとも、空元気で無理にでも気持ちを切り替えようとしても、この黒い霧とやらが完全に晴れる日は来ないのだろう。何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も、何十年も、ずっと私と澪はこの黒い霧と共に生きていくことになる。  数日後、紫衣の法要を終えて。  自宅の玄関扉の鍵を開け、家の中へと入る私と澪。 「ただいま」  私がそう言ったところで、無人の家から返ってくる返事はない。ただ、しんと静まりかえっているだけであり、電気も点いてないので当然薄暗い。  いつもなら廊下の奥から、紫衣の明るい声が私を出迎えてくれるし家の中だって明るい。時間帯によっては、香ばしい夕食の香りも漂ってくる。それが我が家の当たり前であったが、今となってはそれも何だか遠い過去の話のように見えてしまう。  遺影を抱えたまま無言で立つ澪は、ただいまの一言すらまともに口に出せずにいた。やつれた顔で、目の下にはクマができ、唇はとても生気を感じない色をしている。心身共に疲弊しきった娘の姿はとても痛々しいものだったが、不器用な私には背中を優しく摩って気を落ち着かせたり疲れを癒やしたりすることしか出来なかった。「何か元気になるような言葉を」とも思ったが、同様に疲弊している私が言ったところで彼女が元気になるとは思えなかった。  自宅に帰ってきてから、徒に時間が流れていくばかりだ。その間、私と澪は一言も話していない。葬儀の疲れもあったかと思うが、とにかく今は何をすべきなのか全く分からないというのが大きな要因だろうか。ぽっかりと空いた穴が余りにも大きすぎるし、それを埋め合わせる余力が今の私たちには無かったのである。  ふぅと小さくため息をつく私。あの事故さえ無ければ、今頃妻は夕食を作り出していて・・・・・・駄目だ、こんなことを考える度に胸が痛む。考えても仕方が無いのに考えてしまうのは何故だろうか。  一方で、荷物の片付けを終えた澪は2階の自室に戻っていったようだ。階段をゆっくりと上る足音と、扉を開け閉めする音が聞こえていたからそうだろう。澪は事故の一部始終を目撃している分、私よりも深く傷跡が残っているに違いない。今はそっと一人にしてあげた方が良いだろう。  私はこの陰鬱な気分を少しでも晴らそうと、居間で好きな本を読もうとして横になっていた。毎週金曜日、仕事を終えた後に少しだけ立ち寄る本屋で買った小説。この頃忙しくて読めていなかったなと思いながら、1ページ、また1ページと読み進めていく。しかし何故だろう、物語が全然頭の中に入ってこないから楽しめない。仕方が無いので、テーブルの上に本を置き、代わりにテレビを付けた。テレビではバラエティ番組の再放送をやっている。何だか楽しそうな内容だと思いながら見ていたが、やっぱり楽しめない。チャンネルを変えて、野球中継、動物番組、アニメ、・・・・・・色々な番組が放送されていたが、全然面白く感じない。 「あぁ!もう!」  埒が明かないと思った私は、苛つきながらテレビを消して立ち上がった。特に何かやることがあるわけでは無い。ただ何となくである。  はてさて、どうしたものかと適当に家の中をふらふらしていると、いつの間にか澪の部屋の前に来ていた。ついさっき「一人にしてあげよう」と思ったばかりなのだから、今彼女の部屋に入るわけにはいかないだろうと考え、居間へ引き返そうとしたら部屋の扉が開く音が聞こえた。後ろを振り向くと、そこには澪が神妙な顔をして立っていた。 「今、時間大丈夫?」  澪は私に尋ねた。唐突な声かけに私は少し驚いたが、すぐに返事した。 「あぁ、大丈夫だよ。どうしたのか」 「ちょっと話したいことがあって」 「話したいこと?」  話したいことがあると言われた私は、澪に手招きされるがまま、澪の部屋の中に入った。  机や本棚、ベッドの上には可愛らしいグッズが並ぶ思春期の女の子らしい部屋。その一角には、幼い頃に我が家にやって来た人形のベルが静かに佇んでいたが、その美しさと可愛らしさは昔のままだった。  さて、部屋の真ん中に置かれたクッションの上に座るよう促された私は、職業病か、思わず「失礼します」と一礼してから座ってしまった。ハッとして顔を赤らめた私を見て、澪はクスリと小さく笑った。紫衣が亡くなってから澪の笑顔は初めて見たかもしれない。クスリと小さく笑っただけだが、それだけでも安心できた。  私が座したのを見た澪は小さく咳払いすると、単刀直入に話を切り出した。 「あの時のことについて、お父さんにも知って欲しいの」  私は唾を飲んだ。事故が起きたと聞いた時から、澪と紫衣の身に何があったのか知りたかった。しかし澪の心境を考えると聞くわけにはいかないと思い、警察からの報告書を静かに待つことにしていた。そのために、彼女の口からそのような台詞が飛び出してくるとは思わなかったのである。驚く私は「あぁ」と生返事を返すのが精一杯だった。  澪は時折視線を下げながら、あの日のことを粛々と語り始めた。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加