第2章 愛の形

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『澪へ。今日私は人形館に行くので、都合が良ければ一緒に帰りましょう お母さんより』 『分かった。今日は部活も長引くことは無いと思うしそうしましょう。何時ぐらいになりそう?』 『う~ん、夕方の5時くらいかな?多少前後するかも』 『分かった。とりあえず5時10分くらいには人形館の辺りで合流しましょう』  お母さんとの何気ないメールのやり取り。今日は月に一度、お母さんと一緒に車で帰る日だ。普段バスで学校と家との間を往復しており、バスの車内で友達と勉強や普段の生活について話し合う時間も好きだが、お母さんと一緒に気兼ねなくお喋りしながら車で帰る日も大好きだった。  本当は学校に携帯電話を持ってくるのは駄目だと指導されているが、実際先生達の目を盗んで持ってきている学生は何人もいた。私も護身用だとお父さんに言われて、音もバイブレーターも鳴らないように設定し、緊急時や必要な連絡事項があるとき以外は使わないように両親と約束した上で、学校にはこっそりと持ち歩いている。ある意味、この掟破りのおかげでお父さんをすぐに呼べたんだと思う。  部活動を終えて帰途に就く。時刻は夕方5時過ぎだったと思う。この時は小降りの雨が降っていて、夏の夕方と言えど少し薄暗かった。  洋館風の校舎を出て石畳の坂道を下る。雨で濡れた石畳は滑りやすくなっていて普段より神経を使う。私は歩きながら、そういえば入学した年の梅雨に、友達とバス停まで歩いていたら友達が足を滑らせて怪我をしたことを思い出した。たいした怪我では無く、彼女も気恥ずかしそうに照れ笑いながら立ち上がったので、他の友達と茶化しあいながら歩いてたなと振り返り、思わず一人で小さくクスクスと笑った。  石畳の坂道を下った先に見える青い木造の洋館。そこがお母さんとの待ち合わせ場所である東山手人形館。門柱の所に立って待つように言われてたので、私は一人傘をくるりと回し鼻歌を歌いながら、お母さんが出てくるのを待っていた。  確か、5分ほど待っていたか。ニコニコといつものように明るい笑顔を振りまきながら、お母さんは私の元へ歩いてきた。私が小さく手を振ると、お母さんも小さく手を振り返した。 「おまたせ、澪」 「ううん今来たところ。さ、早く買物して帰ろ。お父さんがお腹空かして待ってるよ」 「そうね、早く帰りましょ」  私とお母さんは合流すると、車の駐めてある駐車場まで並んで歩いた。歩きながら、今日学校であったことや勉強のことなど、何気ない会話をしていた。お母さんは笑顔で相槌を打っていたけれど、何となくどこか元気が無いように見えた。車の中に入るやいなや、気になった私はお母さんに尋ねてみた。 「ねぇ、お母さん?何だか具合悪そうだけど大丈夫?」 「・・・・・・」 「お母さん?」  最初、お母さんは無言で全く私の問いかけに答えなかった。聞こえなかったのかなと思い、もう一度問いかけてみると、お母さんは少し間を開けてから声を落として少しずつ話し出した。その時の表情は、今まで見たことが無いくらいに辛そうな顔をしていたと思う。 「・・・・・・ねぇ、澪」 「ん?どうしたのお母さん」 「家に帰ってからまた詳しく話そうと思うんだけど、実はね、私ちょっと体調が悪くてね・・・・・・」 「え?具合悪いの?大丈夫?」 「今は大丈夫。薬も飲んでるし暫く痛みは感じないと思うわ」 「痛みって・・・・・・お母さん、それどんな病気なの?」 「・・・・・・」  またお母さんは黙ってしまった。顔を俯かせて何か考え事をしている。彼女の煮え切らない態度に私は焦りの色が隠せない。気がかりでどうしようもなかった私は、どんな病気か、いつから具合が悪いのか、痛みを抑える方法は、・・・・・・思い浮かぶ質問をいくつかまくし立てるように問いかけた。お母さんは小さくため息をつくと、重い口を開いてポツリと呟くように答えた。 「ごめんね、澪」  私は驚いた。唐突に謝罪されて、どう受け取れば良いのか分からなかった。よく見ると、お母さんの目には涙が浮かんでいる。 「・・・・・・お医者さんが言うにはガンらしいわ」  医学に対して無知な私でも『ガン』と言われたら、その重さは何となくだが理解できる。かなり激しい痛み等を伴う病気であり、治療で一時的に治癒できたとしても転移や再発のリスクが高いと聞いたことがある。だから、母の口からこぼれ出たその一言には驚きを隠せなかった。 「嘘・・・・・・!?」 「ごめん、澪。本当にごめん。・・・・・・また後で家に帰ってから、お父さんも加えて三人で話し合いましょう」  そう言うとお母さんは、車のエンジンキーを回した。カーステレオからはFMラジオが聞こえてくる。軽快なトークで盛り上がるラジオとは裏腹に、私たちの乗る車の中は暗く淀んでいた。お母さんの衝撃的な告白に言葉を失っていた私は、ぼうっと窓の外を眺めていた。  車は人形館近くの駐車場を出ると、先程歩いて下ってきた坂道を通って人形館の前を通っていく。その際、人形館も閉館前らしく、館のスタッフと思しき女性が門柱脇に置いていた看板を片付けているのがチラリと見えた。  この時、時刻は5時30分のちょっと前くらいだったと思う。丁度ラジオではニュースをやっており、その中で『××造船所、客船建造事業中止』というニュースが流れていた。この時、お母さんがお父さんのことを心配するような素振りを見せていたのが印象的で、確か「お父さんは、仕事の方は大丈夫かしらね――」と呟いていた記憶がある。何か胸騒ぎがしてたのかもしれない。  そして、5時30分。私たちの車は急な下り勾配のある石畳の坂道に差し掛かっていた。この坂道は路面電車やバスも通る通りに向かう途上にあり、また周辺には明治時代に建てられた洋館等も残っているため、観光客もよく通る人気の道である。が、この日は平日夕方でかつ雨も降っていたためか人通りも少なかった。  車の中は車の走行音に混じってラジオの声が少し小さく聞こえる程度で、私とお母さんの会話は無かった。未だお母さんの告白に対して気持ちの整理が出来てなかった私だが、かといって湿っぽい雰囲気のままなのも気が滅入ると思ったので、何か楽しいことを話そうかと思い、私はお母さんに声をかけようとした。その時だった。 「うっ!お腹がっ・・・・・・!」  突如お母さんが腹部を抑え、息を荒げて苦しみだした。顔も真っ青で汗がダラダラと体中をしたたり落ちるのが見えた。 「お母さん!?」  私はお母さんのことが心配になり、彼女の側へと身を乗り出そうとした。その時、お母さんは声を振り絞り「そのまま!頭を低くして!」と叫んで私の動きを制止した。驚いた私は彼女に言われるがまま、その場に頭を低くして蹲った。すると車は急ブレーキがかかりだした。足下からはキキーッと甲高い音が響き、その上に強い圧力が身体にのしかかる。シートベルトをしていた私の身体が、まるで車の外に放り出されるかのような強い圧力。身体を締め付けられるような痛みを感じながらも、車は少しずつ止まろうとしていた。  しかし、車は止まらなかった――いや、止まれなかったというのが正しいだろう。雨に濡れた石畳の急な坂道は、とても滑りやすくなっていた。所謂ハイドロプレーニング現象と呼ばれる摩擦力喪失の現象により、お母さんのかけた急制動の効力は失われ、私たちの乗った車は瞬く間に石畳を滑り落ちる鉄の塊と化した。ここまでくると、私にもお母さんにも為す術は無かったと後に警察の方から聞いている。 『止まれ止まれ止まれ!』  私は蹲りながら何度も強く念じた。私は怖かった。止まらない車、苦しむ姿の母親。もしかしたら死ぬかもしれない。友達と会えなくなるかもしれない。家に帰れなくなるかもしれない。様々な恐怖が私を襲う――もしかしたら、お母さんもこの恐怖とも闘っていたかもしれない。私が最後に見た彼女の姿は、手に汗を垂らしながらハンドルを握っていた。  そして、滑り落ちた先の交差点で、運悪く右からやって来たタクシーと鉢合わせして・・・・・・。お母さんが「あ」と声を漏らしたのが聞こえた直後、大きな衝撃が私たちの肉体を襲った。あぁ、もう・・・・・・どうして。  閑静な住宅街に、まるで雷が落ちたかのような大きな衝撃音が響く。周辺住民が何事かと目を丸くして家々の窓から外の様子を見る。住民らの視線の先には、車体が大きく凹み部品を散乱させた軽自動車とタクシーの姿が見えた。  前面を大きく凹ませたタクシーの車内から、ふらふらと蹌踉めきながら中年の男性乗務員が出てくる。頭から流血しているが、何とか意識は保っていたようだ。慌てて駆け寄ってきた周辺住民に保護された彼は、私たちの車の方を指さしながら警察や消防を呼ぶように訴えていたという。  一方私は、大破し煙り燻る車の車内で目が覚めた。私には何が起こったのかが分からない。ただ身体には所々傷や痣が出来ていて、頭もガンガンと痛かった。 「・・・・・・お母さん?」  大破した車内で私はお母さんを呼んだ。すると、車の前側で横たわる人間の肉体が見えた。・・・・・・お母さんだ。すかさず私は彼女を揺り起こそうと、彼女の身体に触れた。・・・・・・何だか冷たい液体のような感触がする。それに肌が何だか冷たくなっているような・・・・・・。 「お母さん?お母さん?」  私は刺激しすぎない程度に、お母さんの軽く身体を揺り動かした。しかし、いくら名前を呼んでも、いくら身体を揺すっても彼女は返事の一つもしない。その現実を前にして、段々と私の中で焦燥感が肥大化する。お母さんと呼ぶ声が震えていき、揺り動かす手も震えて満足に揺り動かすことも出来なくなっていく。 「嫌だ!お母さん!お母さん!目を覚ましてよ!」  非情な現実を受け付けられない私の脳はパンクした。慌てた私は近くに落ちていた私のカバンから携帯電話を取りだして、お父さんを呼び出そうとする。電話は繋がった。しかし冷静さを失った私は、上手く電話を持つことも言葉を話すことも出来ない。狼狽える私はいつの間にか電話を切っていた。 「うわあああああ!」  私の悲痛な絶叫が辺りに響いた時、車の外から懐中電灯の光が私たちを照らした。私たちを照らしたのは、救助に来た警察や消防の人だった。ここに救助者がいるぞ、二人だ急げと応援を呼ぶ声が聞こえてくる。やがて私とお母さんは消防の人に助け出されたが、お母さんは怪我の程度が重く、救急車に担ぎ込まれると直ぐに病院へと搬送されていった。雨の中に消える救急車の赤色灯の光を、呆然としながら立って見送る私。ボロボロになった私の制服には、泥汚れと共に赤い血のシミが付いていた。そして赤色灯の光が見えなくなったとき、疲れと緊張と不安とが一気に私へ押し寄せてきて、とてもまともに立っていられなくなった。  魂が抜け落ちたかのように地面へ座り込んでいると、私を呼ぶ声が聞こえてきた。お父さんだ。良かった、私たちを探しに来てくれたんだ。それだけで私は感無量だった。  澪は話を終えた途端、その場で涙を流し出した。私が慌ててハンカチを差し出すと、澪はそれを拒否するように手の平を突き出した。 「ごめん、私は大丈夫だから気にしないで」  澪はそう話したが、繊細な思春期の少女の心で受け止めるにはあまりにも惨すぎる出来事だったと思う。実際、私のようにある程度人生経験を積んでいたとしても、この出来事は非情すぎる話であり受け入れられない現実だった。それでもなお、彼女なりに気丈に振る舞おうとするその姿に私は思わず心を打たれて涙を流しそうになる。  しかし、私は一つ気になることがあった。 「澪、話してくれてありがとう。しかし、何故今この話を・・・・・・?」  私に問われた澪は、一度唇をきゅっと締めると顔を俯かせて何かを考え込んでいた。それから間もなく、澪は何かを決心したように小さく首を縦に振って顔を上げた。その時の表情と言えば、今まで見たことが無いほどの凜々しさも感じさせる一方で、どこか悲しげな表情にも見えた。 「お父さんにあの時何が起こっていたかを知って欲しいというのもあるけれど、一番は私の将来に対する一つの決心の形として過去を乗り越えたいという思いがあるの」 「将来に対する決心・・・・・・?」 「うん。私ね、高校卒業後にファッションデザインを学べる私立大学を目指そうと思ってたけれど、もうやめようと思うんだ」  澪は昔から可愛らしいものを好んでいた。そのきっかけは幼い頃に我が家にやって来た人形のベルだった。  絵本に出てきそうなファンシーで可愛らしい服を纏った小さな少女『ベル』に目を奪われた澪は、幼い頃から人形を抱きしめながら私と妻の前でよくこのように話していたのを覚えている。 「おおきくなったら、おひめさまになる!」 「大きくなったら、ベルみたいに可愛らしい服が似合う人になりたい」 「将来は、可愛い服を作るデザイナーさんになってみたいな」  今思えば、幼い頃にやって来た『ベル』の可憐な姿に目を輝かせ、ベルのように可愛くなりたいと思ったことが『可愛い』への憧れの第一歩だった。澪の中でベルは燦然と輝く星そのものであり、その星を掴んで追いつこう、いや追い抜いて自分が星になろうとして、澪はずっとその姿を追い続けてきたのかもしれない。その後成長するにつれて夢の形は少しずつ変わり続けたが、それでもいつも彼女の夢の根底に『可愛い』ものの存在があったのは、おそらくそういうことなのだろうと思う。  一方で私も妻も、澪が強く抱いた憧れや夢に対して応援し続けた。澪が産まれる前に二人で「自分たちの子どもには好きなことを精一杯楽しませたい」と約束したからだ。ファッションデザイナーになりたいと言われたときは、どういった進路を選んでいくべきか、私や妻を交えながら三人で話し合ったこともあるし、澪は困ったり悩んだりすると、私たちをすぐに頼ってくれていた。夢を追い続ける澪の精神的支柱として、私と妻は一緒に澪を支え励まし続けていたのである。  しかし、妻の紫衣はもうどこにもいない。澪は精神的支柱を一つ失ってしまったが、その失われたピースが余りにも大きかった。日頃から家を切り盛りしていたのも、母親として澪を励まし続けたのも、そして澪に夢や憧れを与えたのも全て紫衣だった。紫衣が澪の母親だったから、澪の今がここにあったといっても過言ではない。大きなピースを失った澪に、もう夢や憧れを追うための力は残されていなかった。  私は制止しようとした。今までが水泡に帰することになってしまう、お母さんもそんなことは望んでいないはずだと諫めるつもりだった。しかし、次に澪の口から出た言葉に対して、私は何も言えなくなった。 「私ね、葬儀会場で噂話を耳にしたの。お父さんが仕事を辞めたって噂。それ本当なの?」  私は黙って首肯した。近いうちに、出来れば新たな仕事を得てから言わねばと思っていたが、まさか既に知っているとは思ってもいなかった。言い訳がましいが隠そうとしたわけでは無い。が、おそらく澪は私のことを咎めてくるであろう。何故正直に話してくれなかったのかと。そう思うと、私には澪に対して何も言う資格は無いように感じた。  澪は黙って俯く私を見て、小さくため息をつくと私に静かに語りかけた。 「やっぱりね、お母さんが感じてたのはそれだったのね・・・・・・。なら、ますます私は頑張らなくちゃね」  私は首をかしげた。 「頑張る?何をだ」  澪は小さく口角を上げて軽く笑って答えた。 「葬儀の夜、先生と少しだけ進路について相談して、その時に答えたの。私は高校卒業後は公務員として働くって。その方が親に負担をかけずに済むって。お母さんが死んでしまったし、お父さんが仕事を辞めて今までのように生活するのが難しくなるかもしれないからって」  私に負担をかけずに済む?何を言っているのか理解できなかった。  今までの日々の中で、勉強や部活動等で多額のお金がかかってきたのは言うまでもない。しかし、私はそれを負担とは思ったことは一度も無い。むしろ、澪が興味を持ったことなら、それを経済的にも精神的にも支えていくのが親として出来ることだと思っていた。  確かに、私は大手造船所の職を辞しており、そうなると今まで通りの生活は難しくなるかもしれない。故に経済的な負担は減らしておくに越したことは無い。しかし、それでも私は澪が好きなことを好きなだけ楽しんでくれるなら、それで良いとしか思っていない。澪の将来のためなら、例え稼ぎが減ってでも支えていこうではないか。私にとってこれは負担では無く澪の将来への投資なのだから。  私はその旨を澪に伝えたが、澪は頑なに首を縦に振ろうとしない。もう私が心に決めたことなのだからとの一点張りである。しかし、それでも私は本当にそれで良いのかと何度も問い詰めた。後悔することになるんじゃないかと諫めようとしたが、澪は鬱陶しそうに激高した。 「私はそれで良いって決めたの!もう良いでしょ!」  激しく言い争い続けて疲れた時、ふと私はあることに気がついた。澪の瞳には、うっすらと涙の膜が張ってあるのが見えたのだ。澪のあの瞳は・・・・・・彼女の瞳から感じた真意を汲み取った時、私はもう何も言い返すことは出来なくなっていた。私は髪の毛をかき回しながらため息をついた後、ポツリと呟くように答えた。 「――分かった。澪の決意はよく伝わったよ。頭が硬くて情けない父さんだが、困ったり辛いことがあったらいつでも相談して欲しい」  ほんの一瞬だけ、しんと静まりかえる間が空いたかと思えば、澪が滝のような涙を流しながら私に飛びついてきた。法要帰りで少々汗臭い私のシャツを、大きな泣き声を上げながら澪は涙で濡らしていく。抱きしめられている私は、そっと澪の頭を撫でた。私と澪の間には、静かで優しい時間が流れていた。
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