第2章 愛の形

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 紫衣が亡くなった次の年の春。澪は高校を卒業し、長崎市役所で公務員として働き始めたと同時に、市内の国立大学の夜間部に通い始めた。  夜間部への進学は担任の先生からの提案だったという。忙しなくて最初は大変だと話していたが、夏、秋、冬、・・・・・・と月日が流れていくにつれて、次第に慣れていったようであり、大学での学びは難しいが楽しくて好きだと私に話してくれたこともあった。 「いってきます」  小さく笑いながら、澪は今日も仕事と学校へと向かう。私も微笑みながら見送ると、仕事へと向かう支度を始めた。  私も、澪の決心を聞いてから暫くして再就職が決まった。船舶の内装工事を手がける地元の中小企業で、私が前勤めていた造船所と比べると小さな会社だったが、とても良い会社であり満足している。  しかし、やはりというか何と言えば良いか、紫衣が亡くなる前のような明朗快活な澪の姿は見られなくなったように感じる。澪は澪なりに決心はついたと言うが、内心どこか過去の自分の夢とのギャップに葛藤している部分が残っているのかもしれない。そう思うと、父親として澪を支えられてない自分はあまりにも情けないのかもしれない。  紫衣が亡くなった後も二人で仲良く暮らしているが、家は広く寂しくなってしまった。紫衣を喪ったショックは年月を経る毎に大分落ち着いてきたが、この寂しい我が家の空気を感じると、未だにどうしても紫衣がいたらと考えてしまうことがある。家を出る前にふと見渡した我が家は、どこか暗く感じた。  仕事に向かう直前、私は家の二階にある紫衣の部屋を開けた。  紫衣が亡くなってから、時が止まったかのように何もかもそのままの部屋。時折、軽くではあるが掃除はしており、机の上に載ったお洒落な赤系のカバンや小さな腕時計等の紫衣の物には埃が被らないようにしている。そんな紫衣の部屋は、今でも少しだけ彼女が付けていた香水の匂いが残り、まるで目の前に彼女がいるような錯覚すら覚える。そのため、私は仕事に向かう直前はいつもここに来て、紫衣に声をかけるつもりで「行ってきます」と呟いていく。そうすると、なんだか返事が返ってくる気がしてやまないのだ。  こうして、私は今日も仕事へ向かう。今日も良い一日になるようにと願いながら、仕事場へと車を走らせていくのであった。  そんな日常が続いたある日。紫衣の大学卒業も近づき、私も職場で大きな仕事を任される機会が増え出した頃。  この日私は仕事が休みだったので、家で本を読んでゆっくり休んでいた。穏やかな午後の日射しが、私の自室に降り注ぐ。窓を開けると心地の良い風。今日はとても良い一日になりそうだと思っていると、玄関の呼び鈴の鳴る音が聞こえた。私が腰を上げて出迎えに行こうとすると、リビングにいた澪が私に呼びかけた。 「私が出るから部屋にいて!」  私は澪の勢いに思わずたじろいで、彼女に言われるがまま部屋に戻ることにした。ゆっくり部屋へ戻っていると、玄関の方から澪が誰かと話しているような声が聞こえてきた。宅配便か郵便屋かと思ったが、それにしてはどこか声の調子が明るいような・・・・・・。盗み聞きするような趣味は無いので、気にはしつつも自室へと入り、また本を読み進めていた。  数分ほどして、自室の扉をノックする音が聞こえた。 「どうした?澪」  私が返答し扉を開けると、そこには瀟洒な格好をした澪が気恥ずかしそうに立っていた。澪は緊張しているのか、少し声を震わせながら私に尋ねた。 「ちょっと・・・・・・下に来てもらえない?」  話とは何なのだろうかと思いつつ、私はとりあえず澪と一緒に下のリビングへと向かった。リビングへ着くと、そこにはスーツ姿で行儀良く椅子に座る眼鏡の青年の姿があった。彼は硬い表情で目線を下に下げ、手に汗を握りながら、私が来るのを今か今かと待っていたようだった。  私の姿に気がつくと、彼は焦ったように椅子から立ち上がり、ぎこちない動きで私に深々とお辞儀した。 「いつも娘さんと親しくさせていただいております!」  彼は声を張り上げて、私にそう告げた。  私は全てを察した。いや、実際は澪が来客を迎えに行っている時から何となく、薄々とは察していた。そうか、澪もそういう関係を持つ年頃なのかと。  緊張で身体の固まっている彼の横に、澪も少し緊張した面持ちで席に着いた。私が席に着くなり、澪の口から彼について紹介があった。  澪曰く、彼は長崎市内の消防署で働く救急救命士で、昔市役所内で急病人が出たときにお世話になった相手だそうだ。それがきっかけで何度か会う内に親しくなっていき、我が家に来る1年ほど前から付き合っていたという。性格は至って実直だが、性格も明るく気配りも出来る人間だとして職場などでの人間関係も良好なようだ。話を聞く限り、確かに娘が惚れるのも分かるような好青年といった印象である。  彼の紹介が終わると、彼は照れた赤い顔で咳払いして気を落ち着かせてから立ち上がり、大きく息を吸って威勢良く私に深々と頭を下げた。 「単刀直入に申します!娘さん――澪さんを私にください!絶対に澪さんを幸せにします!どうかお願いします」  力強い語気を帯びて発せられた彼の声。私が彼の声に圧倒されていると、彼の横に座っていた澪も立ち上がり、頭を下げた。 「お願いお父さん。私たちを結婚させてください」  薄々察していた出来事とはいえ、やはり心の準備が出来ていない時にやられると、どう答えたら良いものか分からず頭の中が真っ白になってしまう。正直彼に初めて会ったばかりであるため、例えどれだけ誠実な人間であろうとも、すぐには「良い」と返事することは難しい。かといって、結婚を認めたくないという訳では無いのも事実。娘の幸せを願うなら、話を聞く限り誠実そうな彼との婚約を認めるのが良いかもしれない。私は悩んだ。  澪も彼もずっと頭を下げたままである。ふむ、どうしたものかと顎をさすりながら考えていると、私の視線の先に紫衣の遺影が見えた。居間の端にある仏壇の上には紫衣の遺影が掲げられているが、遺影の中の紫衣はいつも笑っている。見ているだけで幸せになるような優しい笑顔だ。彼女ならこの時なんて答えるだろうか――。    少し間が空いたが、ふぅと軽く息をついて、私は二人に顔を上げるように告げた。顔を上げた二人はまだ不安げな顔をしていたが、私もまた難しい顔をしていたと思う。互いに気まずい状況の中、私は声を低くして、彼に少しだけ話をした。 「澪は、高校三年生の頃に母親を目の前で喪った。母親――私の妻は澪に夢を与え、夢に向けて頑張る澪を支え続けてきた。そのような存在だっただけに、喪ったときの心の傷は大きく、結果的に夢を追うことが出来なくなってしまった。今も今でそれなりに楽しめてはいるようだが、それでもやはりこのショックが尾を引いている節を感じることがある。まだ傷は癒えてないんだ。・・・・・・君は澪のこの傷跡を癒やして、幸せにしてくれることが出来ると誓ってくれるかい?」  私がそう話すと、澪が私のことを呼びながら立ち上がった。澪は私に反論か何か言おうとしていたようだが、すぐに横にいた彼が澪を制止する。彼は「大丈夫」と澪に告げると、澪は少し苛立ちつつも静かにまた席に着いた。澪が席に着くなり、彼は唾をゴクリと飲み込んで口を開いた。 「私は・・・・・・軽薄な気持ちで澪さんを愛してません。心の底から深く愛しています!だからこそ、私は一生をかけてでも、澪さんの心の傷を癒やしていきます。絶対に幸せにしていきます!」  彼はそう答えると私の回答を待っていると言わんばかりに、私の顔の方へと顔を向けた。キッと引き締まったその表情は、一人の女性を愛し抜くという覚悟の現れであるように見えた。  私はその表情を見ていると、妙に懐かしい感覚がした。――そうだ、紫衣との結婚前に紫衣の両親へ挨拶しに行ったときだ。当初紫衣の両親は反対していたが、何とか説得して認めてくれたんだったか。その帰路で紫衣に確かこう言われたんだった。 「さっきの貴方の顔、とても頼りがいがあって格好良かった。私を死ぬまで守り抜いてくれそうな顔――今までで一番好きな顔をしていたわ」  どんな顔をしていたかは覚えてないが、紫衣が言っていた顔というのはもしかしたらこんな顔だったのかもしれない。そうか、そうか。そう思っていると私は何だか分からないが、思わず笑いがこぼれ出てしまった。  澪と彼が呆気にとられて、私を呆然と眺めている。 「ハハ、すまない。何だか遠い昔の話を思い出してしまった」  二人は顔を見合わせてきょとんとしている。鳩が豆鉄砲を食ったような顔とはこういう顔のことか。思わぬ反応が返ってきて驚いているらしい。  私は小さく笑いながら、二人へ私の気持ちを伝える。 「うん・・・・・・。彼の澪への気持ちは十分に伝わった。実に嬉しい答えだった。ありがとう。・・・・・・だが、まだ彼のことについて知らないことも多いから、今この場で認めるのも難しいのも事実だ――」  二人の顔が沈む。まあ、正直そういう表情になるだろうなとは思ってはいたが、まだ私の話は終わっていない。不安そうに私を見つめる二人をよそに、私は話を続ける。 「また、いつでも家に来なさい。一緒に食事でもしながら、色々と語り合おうじゃないか。私は君と出会えて良かったと思っているよ」  私が話し終えると、二人は涙を流しながら抱き合って喜んでいた。お父さんありがとうと、涙声で娘が私に話しかける。彼もまたありがとうございますと深く一礼していた。  この時点ではまだ完全に婚約を認めたわけでは無かったが、私の中で少しずつ彼への信頼が芽生えだしていたのも事実だ。これから何度も会って親睦を深めていきながら、澪と彼との婚約を認めてそれを心から祝ってあげたいという気持ちが湧いていたのだった。  それから、私たちは何度も会って交流を深めた。  最初は彼も緊張してどこか落ち着かないところこそ感じられたが、徐々に緊張も緩み、いつの間にか気さくに話しかけてくれるようになっていった。一方で私も、彼と何度も会う内に温厚篤実な彼の性格を知った。周囲の人間への細かい気配り、職務へ対する実直な姿勢、・・・・・・。そんな彼に明るい笑顔で身を寄せる澪の姿を何度も見ていると、澪が彼に惚れ込んだ理由も頷けるものであり、そしていつの間にか私も彼に対し全幅の信頼を寄せるようになっていた。彼ならあの日誓ったように澪を大切にしてくれる、守ってくれる。そう思うと私は彼らに「あれ」を言わなければならない気がしていた。  そして、彼と初めて会ってから半年ほどが経過したある日、我が家のリビングで食事をしているときに私は思い出したように一言呟いた。 「そういえば、今日は澪の誕生日だね」  私が呟いた瞬間、澪は思わず吹き出して笑っていた。いきなりお父さんそうしたのと。横にいた彼も、笑っては駄目だよと澪のことを諫めながらも、我慢できなかったのかその顔は少し笑っていた。  私は思わず恥ずかしくなり顔を赤らめたが、その照れた顔で咳払いをして気を取り直し、また話を続けた。 「いや、実は澪に・・・・・・というか、君たちにプレゼントをと思ってな。といっても何かモノとかでは無いのだが・・・・・・」  それを聞いた二人は、目を丸くして首をかしげていた。二人で顔を見合わせながら、どういうことだろうかと考え込んでいるようだった。  そんな二人の様子を横目に、私は話を続けようとした。しかしながら、柄にも無いような台詞を吐くことになるもので、正直に言うと結構気恥ずかしさを感じていた。そのため、緊張で声が上ずったり震えたりしながら話したので、プレゼントと気取った割にはいまいち締まりの無いものになってしまった気がする。 「君たちにな、その、あることを言ってなかったと思ってな。それをプレゼントにしようと思ってだ。えぇっと・・・・・・その、何だ。洒落た言い回しが出来ないのが申し訳ないんだが・・・・・・その、君たちの婚約を・・・・・・認めよう。結婚おめでとう」  肝心なところで何たる失態。なんと辿々しく滑舌の悪い話し方か。二人も黙り込んでぽかんとして、反応に困っているではないか。  自分でも恥ずかしく、思わず顔を手で覆って隠そうとしたところに何か呟くような声が聞こえた。声の方を向くと、彼が頭を深く下げているのが見えた。 「ありがとうございます。これからも宜しくお願い致します!」  彼の方に耳を向けた時、このように聞こえたのを覚えている。涙で声を震わせながらも、喜びに満ちた嬉しそうな明るい声で彼は私に謝意を表していた。彼の横では、澪が笑みを浮かべて涙を流しながら彼の背中を摩っていた。 「じゃあ、お父さん。ちょっとバス停まで彼を見送りに行ってくるね」  溌剌とした声で話しかける澪。夜道は危険だから気をつけて行くようにと私が忠告すると、澪はバス停はすぐそこだし、そこまでは彼も一緒だから全く怖くないよと笑って返事した。やれやれと呆れながらも、仲睦まじく家を出て行く二人の背中を玄関で見送ると、私は踵を返して居間に戻った。  居間にある仏壇の前に正座し、おりんを軽くならす。チ~ンと金属の音が細かく波打つように複雑に響くと共に、私は手を合わせて小さく礼をする。 「紫衣、澪もついに結婚するときが来たよ。おめでとうって言ってくれ」  私は仏壇の中に置いている写真立てに向かってそう呟いた。  写真立ての中には、昔家族三人で撮った記念写真が飾ってある。私も澪も紫衣も、とても楽しそうに目を細めている。写真の中にいる紫衣は何も言うことはないが、きっと祝ってくれているだろう。そう思いながら満足げに私が立ち上がろうとすると、ふとどういう訳か紫衣の遺品のことが気になった。先程まで特段意識はしてなかったのだが――と、不思議に感じつつも私は直感的に二階の紫衣の部屋へと足を運んでいた。  中に入った私は、う~んと頭をひねりながら机上に置いていた紫衣のカバンに手を伸ばす。紫衣が亡くなった時のほぼそのままの状態で残るカバンの中身を探る私の手は、ある古い一冊のノートブックを取り出していた。  表紙に紫衣の丸みがかった肉筆で『雑記帳』と書かれたその手帳を開くと、一ページ毎に様々な文章が綴られていた。「今日の思い出」「明日の予定」「今後の計画」・・・・・・どうやらこのノートブックは、紫衣が日記帳やメモ帳、スケジュール帳のように使っていたものらしい。生前、夜中に紫衣が机に向かって何か作業をしているのは見たことがあったが、恐らくはこのノートをしたためていたのだろうと思う。  私は手に取ったこのノートブックを、破れないように一ページ一ページ慎重に読み進めていた。ある日の記事は『澪が部活動の大会で表彰されたこと』を自分のことのように嬉々として書かれ、またある日は『ガンが発覚して今までに無いほど涙を流したこと』が震えるような字で書かれていた。悲喜交々の内容が綴られたノートブックは、日に日に筆圧が弱まっていくのが見て取れた。薬を飲んでいたとはいえ、鋭い激痛に耐えながらの執筆は、肉体的に厳しいものがあったのかもしれない。私は紫衣の手書きの文字達を眺めていくにつれ、紫衣に対する後悔の念が強まっていくのを感じていた。  そして、最後の日。亡くなる当日に書かれたものだ。この日の予定は『人形館へ人形を注文しに行く』と書かれていた。病と闘う彼女にとって、人形は数少ない癒やしだったに違いない。実際この日に限らず、人形館で眺めた人形の思い出や人形館での友人達との思い出話などがいくつも書かれ、大概『辛い痛みを忘れられる至福の時間』との文言が、ページの端や日記の文末に書かれていたものだった。  そんな彼女が最後に遺したものは何か。次のページをめくると、そこには『二郎さんへ』という題の付いた、彼女の字で書かれた文章が綴られていた。  
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